三
遥の家は、電車で三十分の、川沿いの建売りの家だった。
駅まで迎えに来た遥は、キャリーの中のムギを見て「ムギちゃん、久しぶり」と言い、それから私の顔を見て黙った。車の中で、私は、部屋に誰かが入っているかもしれない、と言った。警察には言った、鍵も替えた、それでも気味が悪い、と。録画のことは言わなかった。言えば、遥は見せてと言う。見れば、遥もあの警察官と同じことを言う。
「何日でもいいよ」と遥は言った。「和室、空いてるし」
遥の夫の修平さんは、玄関で頭を下げ、「お義姉さん、大変でしたね」と言った。私とは、法事と正月にしか顔を合わせない人だった。それから、腕に抱いた蒼の頭越しにキャリーを少し見て、「蒼がまだ小さいんで、和室から出さないでもらえると」と言った。もっともだった。私は何度も頭を下げた。
上の子のひよりは六歳で、ムギに会うのは二回目だった。私のことは、まだうまく喋れなかったころから「さやちゃん」と呼んでいる。和室の入口にしゃがんで、キャリーの網に指を入れようとして、遥に止められていた。
その日、私は会社に電話をして、しばらく休ませてほしいと言った。課長は理由を聞かなかった。
夕食のとき、ひよりは私の隣に座りたがった。私が箸を置いて、左の手首をさすると、ひよりは私の手をじっと見た。
「いたいの?」
「ちょっとね。朝と、夜に、少し」
ひよりは自分の左の手首を見て、右の手のひらでそっと包んだ。それからまた、私の手を見た。
*
和室の布団の上で、私は録画を見た。
見ないつもりだった。部屋を出たのだから、もう見なくていいはずだった。けれど携帯は震えたし、震えれば、開かないでいることの方が怖かった。あれがどこにいるのか分からないより、画面の中にいると分かっている方がましだった。
部屋には、もうムギもいない。動くものは、あれしかなかった。
あれは、暮らしていた。
七時四十分に流しに立ち、水を飲む仕草をして、左の手首をさすった。八時十分に、廊下へ出て行った。玄関の方へ。それきり、昼のあいだ、居間には何も映らなかった。夕方の六時四十分、廊下の入口から、あれが入ってきた。肩から何かを下ろす仕草をした。手には何も持っていなかった。
私の一日だった。
私が会社へ行かなくなった日に、あれは私の時刻に出て行き、私の時刻に帰ってきた。夜は十時半にソファの左に座り、何もいない膝の上で、手を頭から尾まで動かした。
あれはもう、私をなぞってはいなかった。私はここで、何もしていない。
九日目の夕方、和室の入口で、ひよりが私の携帯をのぞきこんでいた。私は気づかなかった。六時四十分の録画を、音を消して、何度も見返していたからだ。廊下の入口から、あれが入ってくる。肩から何かを下ろす仕草をする。食卓の椅子の背に、何もないものを掛ける。それから流しの前に立って、左の手首をさする。
「さやちゃんだ」
ひよりの声で、私は携帯を伏せた。
「さやちゃんのおうち? さやちゃん、いま帰ってきたの?」
ひよりは不思議そうに私の顔と、伏せた携帯を見比べた。私は、昨日のだよ、と言った。ひよりは、ふうん、と言って、自分の左の手首を見下ろした。それから、居間の方へ走っていった。
伏せた携帯の下で、録画はまだ再生されていた。私はそれを、指で止めることができなかった。
*
十日目の朝、私は遥の家の台所に立っていた。
立っている、と気づいたのは、手首が温かかったからだ。右の手のひらが左の手首を包んで、ゆっくりとさすっていた。私はそれを止めた。止めるのに、少し力が要った。
流しの縁に、コップが伏せてあった。底に水の粒が残っていた。水を飲んだ覚えはなかった。布団から起きた覚えも、和室の襖を開けた覚えもなかった。窓の外で、隣の家の車がエンジンをかけていた。冷蔵庫の横の時計は七時四十分だった。
家の中はまだ寝ていた。二階で蒼がぐずる声がして、すぐに止んだ。
私はパジャマのポケットから携帯を出した。指が震えて、二度、暗証番号を間違えた。
アプリに、通知が一件あった。七時三十八分。
私の部屋の居間が映っていた。窓の下の流しの前に、灰色のカーディガンの背中が立っていた。両手を縁について、うつむいて、右手を口元へ持っていく。首が反る。手が下りて、右手が左の手首をさする。
三回。
録画が終わってから、私は自分の左手首を見た。さすられて、皮膚が少し赤くなっていた。
あれは七時三十八分に流しに立った。私はそのあとで、ここに立っていた。
ずっと、あれが私のあとにいた。今朝は、私があれのあとにいる。
膝が抜けて、私は流しの縁をつかんだ。コップが倒れて、流しの底で鳴った。
「さやちゃん」
振り向くと、台所の入口にひよりが立っていた。パジャマのズボンの裾を片方だけ踏んで、眠そうな目でこちらを見ていた。
「なにしてるの」
何も、と言おうとした。声が出なかった。
ひよりは首をかしげて、それから、右の手のひらで自分の左の手首を包んだ。小さな手で、ゆっくりと、二度、三度、さすった。
「これ、さやちゃんの」
ひよりはそう言って、笑った。
*
その日から、私は朝が怖くなった。
目覚ましを七時半に三つかけた。遥に、七時半になったら和室をのぞいてほしいと頼んだ。遥は、どうして、と聞いた。私は答えられなかった。口を開けて、閉じた。遥はしばらく私の顔を見て、それ以上は聞かなかった。
十一日目の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。私は布団の上に座っていて、右の手のひらが左の手首を包んでいた。携帯の時計は七時四十分だった。開いた録画の中で、あれは、ほんの少し前に同じことをしていた。
布団の端に、ひよりが丸くなって眠っていた。夜中に二階から下りてきて、もぐりこんだのだと、あとで遥が言った。前の晩も、その前の晩も、そうしていたらしかった。私は気づいていなかった。
その朝、ひよりは台所で、踏み台に乗って流しの前に立った。
私は和室の襖のかげから、それを見ていた。ひよりは両手を流しの縁について、うつむいた。右手を口元へ持っていった。手には何も持っていなかった。首が少し反って、手が下りて、右の手のひらが、左の手首を包んだ。
一回。二回。三回。
そこで、止まった。
ひよりは踏み台から下りて、何もなかったように、居間のテレビの前へ走っていった。
流しの縁に、コップが伏せてあった。私は襖の縁をつかんだまま、しばらく指を離せなかった。
ひよりは、手首をさするのをやめなかった。朝ごはんのとき、幼稚園の靴をはくとき、テレビを見ているとき。遥が「なにそれ」と笑うと、ひよりは「さやちゃんの」と言った。遥は笑ったまま、私の方を見た。私は笑い返せなかった。
その夜、遥が、私を見つけた。
夜中の二時だった。私は居間のソファにいた。遥の家の、灰色の布のソファの、左の端に。暗い中で、膝の上に何もないまま、両手を頭から尾まで動かしていた。
「お姉ちゃん」
遥の声で、私は手を止めた。遥は廊下の明かりを背にして、居間の入口に立っていた。片手で口を押さえていた。
「……ムギちゃんは」
ムギは和室にいた。キャリーの中で眠っていた。私の膝には、最初から何もいなかった。
遥は何も言わずに私を和室まで連れて行き、布団に寝かせ、襖を閉めた。廊下で、遥がしばらく立っている気配がした。それから階段を上がっていく足音がした。
私は携帯を開いた。二時の少し前の録画に、白黒の居間が映っていた。ソファの左に、あれがいた。膝の上には何もいなかった。何もいない膝の上で、あれの両手が、頭から尾まで動いていた。
あれが私をなぞっているのではなかった。私が、あれをなぞっていた。
録画の中で、あれの手が止まった。遥の声がしたのは、録画が終わるより少しあとだったはずだ。私の手が止まったのは、遥に呼ばれたからではなかったのかもしれない。
*
十二日目の夜、修平さんが和室の前に立った。
遥はその後ろにいた。目が赤かった。
「お義姉さん、すみません」と修平さんは言った。「ひよりが、夜、眠れなくなってて。手首をずっとさすってて、やめなさいって言っても、やめないんです。三回やって、止まって、また三回。今日、幼稚園の先生からも言われました」
修平さんは、言葉を選んでいた。怒っているのではなかった。怖がっていた。
「病院とか、ちゃんとしたところに相談したほうがいいと思います。うちじゃ、どうしてあげることもできないので」
私は、はい、と言った。分かります、と言った。修平さんの言うことは全部正しかった。私が修平さんでも、同じことを言った。
遥が「ごめん」と言って泣いた。私は遥の肩に手を置こうとして、やめた。自分の手が、何をするか分からなかった。
*
その夜、和室の布団で、私は自分の部屋を思い浮かべた。
窓の下の流し。食卓の椅子の背。ソファの左の端。
どこも、私が先に離れた場所だった。
そして、七日目の夜の録画を思い出した。ソファに座っていた私ははっきり映っていて、流しの前のあれは、カーテンの柄が透けるほど薄かった。あのとき、あの部屋にいたのは私だった。
それなら、戻って、ひとつずつ取り返せばいい。
流しに立つ。あれより先に。ソファに座る。あれより先に。私の部屋で、私が暮らす。そうすれば、あれはまた薄くなるかもしれない。
かもしれない、という言葉に、私はしがみついた。ほかにしがみつけるものがなかった。逃げても、あれは私の体ごとついてきた。ここにいれば、ひよりの手首まで持っていかれる。帰る場所は、あの部屋しかなかった。
翌朝、私はムギをキャリーに入れた。玄関で、ひよりが遥の後ろから顔を出した。手を振ろうとして、遥にその手を握られていた。
ひよりの左の手首が、赤くなっていた。




