二
翌朝、管理会社に電話をすると、午後には鍵が替わった。
新しい鍵は銀色で、まだ角が立っていた。古い鍵を返すとき、担当の人は「前の鍵、どなたかに渡されてました?」と聞いた。いいえ、と私は答えた。担当の人は、そうですか、と言って書類に何か書いた。
灰色のカーディガンは、ごみ袋に入れた。
袖を表に直そうとして、やめた。裏返ったまま丸めて、袋の口をきつく縛り、玄関の外に出した。燃えるごみは翌朝だった。夜のあいだ、ドアの向こうにその袋があると思うと落ち着かなかったけれど、部屋の中にあるよりはよかった。翌朝いちばんに、集積所の網の下へ押しこんだ。
その夜から、流しに立たないことにした。
朝の水は、寝室で飲む。ペットボトルを枕元に置いて、起きたらそこで飲む。手首もそこでさする。台所の窓の下のあの場所に、自分の背中を置かない。そう決めただけで、少し息がしやすくなった。
カメラは止めなかった。止めようと思って本棚の前に立ち、電源の線に指をかけたところで、ムギが足もとで鳴いた。ムギは三日前から餌を半分残している。昼のあいだに吐いていないか、水を飲んでいるか、私にはそれしか確かめる方法がなかった。
私は線から指を離した。
*
五日目の朝は、寝室の戸を閉めて水を飲んだ。
戸の向こうは静かだった。ムギが餌の皿を鳴らす音がして、それもすぐにやんだ。私はペットボトルの蓋を閉め、手首をさすって、時計を見た。七時四十分だった。
昼休み、アプリを開くまでに時間がかかった。開かなければ、何も起きていないことにできる気がした。そういう考えが自分の中にあるのが嫌で、私は休憩室の隅で、携帯を両手で持って開いた。
いちばん下に、朝の一件があった。七時四十分。
私は流しに立っていない。だから、そこに映っているのはムギのはずだった。
流しの前に、背中があった。
灰色のカーディガンを着ていた。
両手を流しの縁について、うつむいて、右手を口元へ持っていく。首が反る。手が下りて、右手が左の手首をさする。三回。画面の左端に、寝室の引き戸が映っていた。閉まっていた。その向こうに、私がいた。ペットボトルを持って、同じ時刻に、同じことをしていた。
あの戸から流しまで、三メートルもない。
気がつくと、私は女子トイレの個室にいた。便器の前にしゃがんで、朝のパンを全部吐いた。水を流して、流れていく音を聞きながら、あれは私の背中を見ていたのだろうか、と考えた。戸一枚の向こうで、私が水を飲むのを。それとも、私がもう流しに立たないから、代わりに立ったのだろうか。
答えはどこにもなかった。
その日、私は定時で帰った。集積所の網の下には、もう何もなかった。部屋に入ると、食卓の椅子の背には何も掛かっていなかった。カーディガンは、録画の中にしかなかった。
*
六日目、職場で紙の端で指を切った。
見積書の束をそろえていて、右の人差し指の腹に、細い線が走った。血が玉になって浮いた。私は何も考えずに指を口に含んだ。鉄の味がした。
一時間後、机の下で携帯が震えた。
通知は切っていなかった。切れなかった。昼休みまで待てなくなっていた。
居間の真ん中に、あれが立っていた。カメラのほうを向いていなかった。体を少し横に向けて、右手を顔の前に上げ、人差し指を口に含んでいた。十二秒のあいだ、ずっとそうしていた。
私は自分の人差し指を見た。絆創膏の端が、少しめくれていた。
あれがなぞっているのは、カメラに映った私ではなかった。部屋にいない私だった。職場の机で、誰も見ていないところで、私がしたことだった。
三日目、あれは私の六時間あとにいた。今日は一時間あとにいる。
夕方、妹の遥から電話があった。
「お母さんの三回忌、お寺から日にちの候補が来たんだけど」
遥の声の後ろで、二歳になる下の子の蒼が何か叫んでいた。テレビの音もしていた。母の法事の段取りは、いつも遥がしてくれる。私は駅のホームで、電車を一本見送って、遥の言う日付を手帳に書いた。
「お姉ちゃん、ムギちゃんは元気?」
元気、と私は言った。少し食欲がないけど。
「ひよりがね、またムギちゃんに会いたいって。さやちゃんちの猫、って言ってる」
「そっか。お母さん、ムギちゃんのことばっかり心配してたもんね」
そうだね、と言いながら、私は手帳を持つ手を見ていた。人差し指の絆創膏。部屋に誰かいるの、と言えば、遥は来てくれるだろうと思った。ひよりと蒼を修平さんに預けて、電車に乗って。来て、部屋を見て、誰もいないね、と言う。録画を見て、これお姉ちゃんでしょ、と言う。
「じゃあ、また連絡するね」
うん、と答えて、電話を切った。次の電車が入ってきた。窓に映った自分の顔を、私はしばらく見ないようにしていた。
その夜、私はカメラの電源を抜いた。
見ないことにした。見なければ、あれは画面の中に現れない。本棚の上の青い光が消えて、部屋はただの暗い部屋になった。私はムギを寝室に連れて入り、戸を閉めて、電気をつけたまま布団に入った。
眠れなかった。
画面に映らないあいだ、あれが部屋のどこにいるのか分からなかった。ソファにいるのか、流しにいるのか、戸のすぐ向こうにいるのか。ムギが布団の上で顔を上げ、戸のほうを見て、また伏せた。それだけで、背中が冷たくなった。
三時過ぎに、私は寝室を出て、手探りで電源の線を差しこんだ。青い光が点いた。布団に戻って、携帯でライブの画面を開いた。
白黒の居間が映った。誰もいなかった。ソファも、流しも、空っぽだった。
私は画面を見たまま、朝まで起きていた。見ていれば、少なくとも、あれがいないことは分かった。
*
七日目の夜、私はソファに座った。
左の端の、いつもの席だ。座るまでに、何度も居間の入口で立ち止まった。それでも座った。ここは私の部屋で、私の席だった。それまで手放したら、何が残るのか分からなかった。
ムギが膝に上がってきた。私は頭から尾まで、ゆっくりなでた。母がそうしていたように。ムギは目を細めて、喉を鳴らした。ムギが膝に来なくなったあの夜から、初めてだった。
携帯が震えた。
動きを検知しました。たった今の、私の録画だった。
白黒ではなく、蛍光灯の下の居間が映っていた。ソファの左に私が座って、ムギをなでていた。うつむいた顔も、肩の線も、はっきり見えた。
その後ろ、画面の右奥の、流しの前に、もう一人立っていた。
薄かった。透けていた。後ろの窓のカーテンの柄が、その体を通して見えた。灰色の背中。結んだ髪。こちらに背を向けて、流しの縁に両手をついていた。
私は振り向いた。
流しの前には、誰もいなかった。蛇口から、水が一滴落ちた。
もう一度、画面を見た。録画は終わっていた。最初から再生した。はっきりした私と、薄いあれ。十二秒のあいだ、あれは一度も動かなかった。
私のほうが濃い、と思った。
ここにいるのは私だ。あれは薄い。そう思うと、ほんの少しだけ、息ができた。
けれど、私はその夜から、夕食のあと居間にいられなくなった。
ソファに座ると、背中が流しのほうへ引っぱられた。振り向いても誰もいないことが分かっていて、それでも振り向かずにいられなかった。私は早く食器を洗って、寝室に入った。ムギは来なかった。ソファの左の座面で丸くなって、戸のほうを見ていた。
*
八日目の夜、私は寝室で布団に入り、電気をつけたまま携帯を持っていた。
十時半を少し過ぎたころ、携帯が震えた。
母が死んでから、私はこの時刻に、ソファでムギをなでてきた。二年間、ほとんど毎晩。そのことを、震える携帯を見るまで忘れていた。
ライブの画面を開いた。
居間は暗く、赤外線の白黒で映っていた。ソファの左に、あれが座っていた。
膝にムギがいた。あれの手が、ムギの頭から尾まで、ゆっくりと動いていた。何度も。母のなで方だった。私のなで方だった。ムギは目を閉じて、体を長く伸ばしていた。
あれが顔を上げた。
カメラを見た。顔は暗くてよく見えなかった。ただ、目のところが、白く光った。二つ。
それから、あれは立ち上がった。ムギが膝から床へ下りた。あれは画面の左へ歩いて、左の端から外へ出て行った。
画面の左の端には、寝室の引き戸がある。
私は携帯から目を上げて、戸を見た。
何の音もしなかった。足音も、床のきしみも。戸の下の隙間は暗かった。私の部屋の明かりが、隙間の手前で途切れていた。
私は布団から出て、戸に背中を押しつけて座った。両足を踏んばった。開けて確かめることはできなかった。開けても何も見えないことは知っていた。何も見えないまま、そこにいるかもしれないものの前に立つことが、できなかった。
夜中の二時を過ぎたころ、戸の向こうで、ムギが鳴いた。爪で戸の下を掻く音がした。入れてほしいときの鳴き方だった。
私は開けなかった。背中で戸を押さえたまま、耳をふさいだ。
カーテンの外が白くなるまで、そうしていた。
朝、戸を開けると、居間には誰もいなかった。ムギはソファの左の座面で眠っていた。座面は、誰かが座っていたように沈んでいた。
私はムギをキャリーに入れて、遥に電話をかけた。




