一
昼休みに、部屋の録画を見るのが日課だった。
会社の休憩室の窓際で、弁当の蓋を開けて、携帯のアプリを開く。居間の本棚の上に置いたカメラが、部屋の中で何かが動くたびに十二秒ずつ撮って、一覧に並べておいてくれる。動くものは、ムギしかいない。
ムギが水を飲む。ムギが窓辺へ跳び乗る。ムギが座布団の上で寝返りを打つ。
ムギは母の猫だった。二年前に母が死んで、私が引き取った。十七歳になる。去年の秋から腎臓の数値が悪くなり、獣医に、食べる量と吐いたかどうかをよく見ていてください、と言われた。一人暮らしの勤め人に、昼間の猫を見ている方法はない。それで、このカメラを買った。
画面の中の居間は、いつも同じ角度だった。正面に二人掛けのソファ。その手前に低いテーブル。右の奥が台所で、窓の下に流しがある。左の端には、寝室の引き戸が少しだけ映る。右の手前は廊下の入口で、その先が玄関になる。夜になると画面は赤外線の白黒に変わり、暗い中で、ムギの目だけが白く光って映る。
一覧のいちばん下には、毎朝、私が一件いる。七時四十分ごろ、出がけに流しで水を一杯飲む背中だ。左の手首を、右の手でさすっている。母の部屋を片づけたとき、段ボールを抱えて痛めてから、朝になると手首が鈍く重い。その一件は、いつも飛ばした。自分の背中を見ても仕方がない。
その日の録画の三件目で、私は箸を止めた。
ムギが、ソファの前の床に座っていた。ソファの方を見上げていた。耳が横に倒れていた。
ソファの左の座面が、ゆっくりと沈んだ。
誰かが腰を下ろしたように、真ん中がへこみ、へこんだまま、録画が終わった。
次の録画は二十分後で、座面は元に戻っていた。ムギは窓辺で丸くなっていた。
古いソファだ、と思った。母の家から運んできたもので、左の端の綿がへたっている。毎晩私がそこに座るから、座面が勝手に沈んだり戻ったりすることもあるのかもしれない。私はそう考えて、弁当の残りを食べた。
夜、ソファの左に座ってムギをなでるのも、日課だった。
十時半ごろ、風呂から上がって、テレビを消して座る。ムギが膝に上がってくる。頭から尾まで、手のひら全体で、ゆっくりとなでる。耳の後ろで少し止めて、背骨に沿って下ろし、尾の付け根で軽く押す。母がそうしていた。母の家の、同じこのソファの、同じ左の端で。私は母の手を見て覚えたのではなかった。ムギが、そうでないと喉を鳴らさなかったのだ。
その夜、ソファの左に座っても、ムギは膝に上がってこなかった。
床に座ったまま、私の横の、何もない座面を見ていた。
*
二日目は何も映らなかった。
三日目の昼休み、私は休憩室の窓際で弁当の蓋を開けたまま、一覧をさかのぼっていた。
十二秒ずつの動画が、新しい順に並んでいる。一時五十二分。十一時六分。九時三十一分。いちばん下に、七時四十分。
一時五十二分を開いた。
流しの前に、背中があった。
灰色のカーディガン。肩までの髪を、後ろでひとつに結んでいる。両手を流しの縁について、うつむき、右手を口元へ持ち上げる。手には何も持っていない。首が少し反って、手が下りて、その右手が左の手首をさすった。
私は箸を置いた。
七時四十分を開いた。
流しの前に、背中があった。灰色のカーディガン。結んだ髪。両手を縁について、うつむき、右手でコップを口元へ。首が少し反って、コップを置き、右手が左の手首をさする。
今朝の私だった。灰色のカーディガンは、今朝着て、出がけに食卓の椅子の背に掛けてきたものだった。
二つを交互に開いた。何度も開いた。コップがあるか、ないか。違うのはそれだけだった。肩の落とし方も、首の反り方も、手首をさする回数も。三回。
一時五十二分の画面の左下に、ムギがいた。テーブルの脚の陰で腹を床につけ、耳を横に倒して、流しを見上げていた。七時四十分のムギは、餌の皿に顔を入れたまま、一度も顔を上げていなかった。
「三輪さん、顔色」
向かいの岸本さんが言った。大丈夫です、と言おうとして、口の中が乾いて言えなかった。指の先が冷たかった。私は弁当に蓋をして立ち上がり、課長の席へ行って、体調が悪いので帰らせてください、と言った。課長は私の顔を見て、すぐにうなずいた。
*
部屋の前に着いても、鍵を出せなかった。
ドアに耳を寄せた。何も聞こえなかった。何も聞こえないことが、耳の奥で鳴っているようだった。新聞受けの隙間から、いつもの部屋の匂いがした。猫の砂と、朝焼いたパンの匂い。
私は廊下の端まで戻り、手すりをつかんで一一〇番を押した。
「部屋に、誰か入っているかもしれません」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
十五分ほどで、制服の警察官が二人来た。年上のほうが私から鍵を受け取り、私を廊下に残して、二人で中に入った。押し入れ、浴室、ベランダ、窓の鍵。ひとつずつ声を掛け合うのが聞こえた。
「誰もいないですね。窓も全部閉まってます。玄関も、こじ開けた跡はないです」
合鍵を持っている人はいるか、と聞かれた。いない、と答えた。ご家族は、と聞かれ、妹が電車で三十分のところに住んでいるが、鍵は渡していない、と答えた。
録画を見せた。私は二つを並べて見せた。七時四十分と、一時五十二分。
年上の警察官は二つを見比べ、首をかしげた。
「朝のと、同じですね」
「同じなんです。でも、二時前です。私は会社にいました」
「ええ」と警察官は言い、携帯を若いほうに渡した。若いほうも見比べた。二人はしばらく黙っていた。
「アプリの不具合で、朝の映像が二回上がるってことはないですかね。こういうの、メーカーに問い合わせてみるといいかもしれません」
コップがありません、と私は言った。こっちには、コップがないんです。
警察官はもう一度画面を見た。それから私の顔を見た。何か言いかけて、やめた。鍵の交換を勧められ、このあたりの巡回を増やしておくと言われた。二人が階段を下りていく足音を、私は玄関で聞いていた。
食卓の椅子に、灰色のカーディガンが掛かっていた。
今朝掛けたとおりの場所だった。けれど、両方の袖が裏返っていた。着ていて腕を抜くと、ときどきそうなる。私は今朝、袖を表に直してから掛けた。そういうことだけは、母に似て、きちんとしている。
ムギがテーブルの下から出てきた。私の足首に頭をこすりつけ、それから流しのほうを見上げて、低く鳴いた。
流しの前には、誰もいなかった。
*
その夜、私はメーカーの問い合わせ窓口に、録画の番号を書いて送った。
返事は翌朝届いた。録画はお客様のカメラから送られたもので、同じ映像が重複して保存されることはありません。時刻はカメラが撮影した時刻です。ご不明な点がございましたら――。
丁寧な文章だった。私はそれを三回読んで、閉じた。
寝る前に、もう一度だけ録画の一覧を開いた。夜の居間を歩く私の背中が、何件も並んでいた。風呂上がりに台所へ行く私。ソファに座る私。寝室へ入っていく私。
一件ずつ開いて、手にコップを持っているか、確かめた。
背中だけでは、どれが私なのか、分からなかった。




