四
駅に着いても、まっすぐには帰れなかった。改札を出たところのベンチに、キャリーを膝にのせて座り、電車が何本も入っては出ていくのを見ていた。ムギがキャリーの中で何度か鳴いた。空が赤くなりはじめて、ようやく立ち上がった。
部屋の鍵は、銀色の新しいほうで開いた。
玄関に立つと、いつもの匂いがした。猫の砂と、パンの匂い。この部屋を出た朝から、私はここでパンを焼いていない。
キャリーを下ろすと、ムギは自分で網を押して出てきて、廊下をまっすぐ居間へ歩いていった。私はその後ろをついていった。
居間は、私が出たときのままだった。ソファも、低いテーブルも、流しも。カーテンが半分開いていて、夕方の光が床に斜めに落ちていた。
食卓の椅子の背に、灰色のカーディガンが掛かっていた。
両方の袖が、裏返っていた。
私はそれに触らなかった。目をそらして、台所の電気をつけ、ムギの皿に餌を入れた。ムギは食べた。この一か月で、いちばんよく食べた。
それから私は、ソファの左に座った。
取り返す、と決めて帰ってきた。座るのにも、流しに立つのにも、あれより先に。ここは私の部屋で、私の席だった。ムギが膝に上がってきた。私は頭から尾まで、ゆっくりとなでた。
携帯が震えた。たった今の、私の録画だった。
蛍光灯の下の居間が映っていた。ソファの左に、灰色のカーディガンの女が座っていた。はっきりと。うつむいた顔の輪郭も、膝の上のムギも、その背をなでる手も。
その女の体の中から、もう一つの肩が、薄くはみ出していた。
透けていた。ソファの背もたれの布の目が、その肩を通して見えた。私の着ている紺のトレーナーの色が、かすかに分かった。薄い腕が、女の手と少しずれて、同じようにムギの背をなでていた。
七日目の夜と、同じ場所だった。同じ席だった。
私は膝の上のムギを見た。ムギは目を閉じて、喉を鳴らしていた。私の手の下で。
それとも、あれの手の下で。
*
その夜は眠れなかった。目覚ましを七時に一つ、七時十分に一つ、七時二十分に一つかけた。
十四日目の朝、七時二十分に私は寝室を出た。
流しの前に立った。コップに水を汲んで、飲んだ。左の手首を、右の手でさすった。三回。七時四十分より二十分も早かった。これで私が先だ、と思った。
携帯を開いた。
通知が一件あった。七時十八分。
流しの前に、灰色のカーディガンの背中が立っていた。両手を縁について、うつむいて、右手を口元へ。手が下りて、左の手首をさする。三回。
二件目の通知が来た。今の、私の録画だった。灰色の背中がくっきりと映り、それに重なって、薄い紺色の何かが、少し遅れて同じ動きをしていた。
次の朝は、もっと早く起きた。まだ暗いうちに流しに立った。録画は、そのほんの少し前にあった。私が早く起きれば、あれも早く起きた。私が立とうと決めたときには、あれはもう立っていた。
昼前、私は食卓の椅子の前に立った。
灰色のカーディガンは、袖を裏返したまま、そこに掛かっていた。触りたくなかった。けれど、これを捨てたのは私だった。捨てたから、あれのものになった。それなら、もう一度着ればいい。
袖に指を入れて、表に返した。布は冷たかった。ひと晩、誰も着ていなかったような冷たさだった。私はそれを肩にかけ、腕を通した。袖の長さも、肩の落ち方も、私のものだった。
カーディガンを着たまま、私はカメラの真下に立った。
本棚を見上げて、手を振った。大きく、何度も。ここにいる、と。ムギがソファの上から、不思議そうに私を見ていた。
録画は届いた。
ソファの上のムギが、首を伸ばして、本棚の下を見上げていた。本棚の下には、カーテンの影が揺れているように見えるものが、ほんの少しあるだけだった。灰色の袖も、振っている手も、映っていなかった。
ソファの左に、灰色のカーディガンの女が座っていた。カメラを見ていた。膝の上で、片手をゆっくり振っていた。
私は、上げたままの手を下ろすのを忘れていた。
私はカーディガンを脱いだ。脱ぐとき、腕を抜くと、両方の袖が裏返った。
夕方、遥から「大丈夫?」と届いた。
大丈夫、と返した。ムギも元気、と書き足した。送ってから、その文を自分で打ったのかどうか、思い出せなかった。
*
夜中の二時に、ムギが鳴いた。
寝室の引き戸の前に座って、戸の隙間に鼻を寄せていた。細い、かすれた声だった。母の家にいた頃から、ムギは閉じた戸が嫌いだった。
八日目の夜、私はこの戸を開けられなかった。ムギが鳴いても、背中で押さえて、耳をふさいでいた。
布団から出て、戸の前に立った。
引き戸の把手に指をかけた。指は、何も感じていなかった。冷たさも、震えも。
私は戸を開けた。
私の目に見える部屋には、いつも誰もいなかった。
居間は暗かった。カーテンの隙間から、廊下の外灯の明かりが細く差していた。ソファも、低いテーブルも、流しも、いつもの場所にあった。誰もいなかった。
ムギはまっすぐソファへ行き、左の座面に跳び乗った。座面は、誰かが座っているように沈んでいた。ムギはその沈みの上で前足を交互に踏み、丸くなって、喉を鳴らしはじめた。
私はソファの前の、低いテーブルとのあいだの床に座った。膝を抱えた。ムギの喉の音が、すぐ上から聞こえた。
本棚の上で、カメラの小さな青い光が点いていた。
手の中の携帯が震えた。
二時十四分。動きを検知しました。
十二秒の録画が、白黒で再生された。
ソファの左に、あれが座っていた。灰色のカーディガン。後ろでひとつに結んだ髪。膝にムギを乗せて、頭から尾まで、ゆっくりとなでていた。母がそうしていたように。
ムギはあれの膝の上で、首を伸ばして、下を見ていた。ソファの前の床を。私が座っている、その場所を。
床には、誰もいなかった。
低いテーブルの脚と、ラグの縁と、カーテンから差す細い明かりが、そこにあるだけだった。薄い影も、透けた肩も、何もなかった。
録画が終わった。
私は携帯から顔を上げた。
ムギが、ソファの上から私を見下ろしていた。録画と同じ角度で、首を伸ばして、耳を前に向けて。何もない座面の、沈んだところに体を預けて。
喉の音は、やんでいなかった。
私は携帯に目を落とした。指が勝手に動いて、ライブの画面を開いていた。
白黒の居間が映った。今の居間だった。
ソファの左に、あれが座っていた。ムギを膝に乗せたまま、前へ身をかがめていた。その顔が、ソファの前の床へ、私の顔の高さまで下りてきていた。画面の中で、その床には誰もいなかった。あれの顔のすぐ前には、何もなかった。
私は目を上げた。
目の前には、何もなかった。暗い居間と、テーブルの脚と、カーテンの細い明かり。ムギが、すぐ上から私を見下ろしていた。
冷たいものが、左の手首をつかんだ。
携帯が手から落ちた。ラグの上で、画面が上を向いた。
指だった。細い指が、手首の内側に食いこんでいた。腕を引いた。動かなかった。肩から先が、もう私のものではないように重かった。
それが、手首の上をすべった。
一回。
ラグの上の画面の中で、あれの右手が動いていた。誰もいない床の、私の手首のあるところで。
二回。
あれが顔を上げて、カメラを見た。目のところが、白く光った。二つ。
三回。
手首をつかんでいたものが、離れた。
画面の中で、あれはソファに背を戻し、膝のムギを、頭から尾まで、ゆっくりとなではじめた。床には、誰もいなかった。
私は自分の手を見た。
右の手のひらが、左の手首を包んで、ゆっくりとさすっていた。




