三
天気予報は、夜から雨だと言っていた。
その日の夕飯のあと、私は父の向かいに座って、聞いた。湯呑みを両手で持って、なるべく何でもないふうに。
「お父さん。私のこと、昔、何て呼んでた」
父は、湯呑みから顔を上げた。
「美津子やろ」
「ほかには」
父は、少し考えた。考えている顔は、穏やかだった。
「美津子は、美津子や」
私はうなずいた。うなずいて、湯呑みを置いた。父は、私を「みつ」と呼んだことを、覚えていなかった。認知症だから、と思うことはできた。この五日、私は何度もそう思ってきた。
けれど、あの呼び方だけは、父が忘れても、私が覚えている。
父が私を「みつ」と呼ぶのは、酒の入った夜だけだった。同じ二文字が、機嫌のいい声で来れば、その夜は殴られずに済んだ。機嫌の悪い声で来れば、済まなかった。私は布団の中で息をひそめて、その二文字がどちらの声で来るのかを、待っていた。
それを、この人は知らない。
*
雨は夕方から降りだして、夜になって強くなった。
十一時を過ぎて、私は台所の灯りを消した。父は茶の間の座椅子に座っていた。この数日、父は夜になっても横にならない。布団を敷いても、敷いたままにして、座椅子に座って、雨戸の閉まった窓のほうを向いている。寝てよ、と言うと、うん、と言う。言うだけで、動かない。
廊下に出たとき、玄関の戸が鳴った。
がたん、と一度。風かと思った。うちの玄関は祖父の代からの引き戸で、型板ガラスの入った木の枠が、強い風の日には勝手に鳴る。
二度目は、風ではなかった。
拳だった。木の枠を、拳の横で叩く音。どん、どん、と、間を置かずに。
「みつ」
声がした。戸の向こうから。
「みつ、開けえ。開けんか」
私は廊下の真ん中で立ち止まった。足の裏から、床の冷たさが上がってきた。
みつ、と私を呼ぶ人は、この世に一人しかいなかった。
玄関の型板ガラスに、人の形が映っていた。外灯の黄色い光を背にして、黒い、ずぶ濡れの形が。肩の線で分かった。灰色のジャンパーだった。
「みつ。おるんやろ。開けえ」
どん、と枠が鳴った。どん。ガラスが、枠の中で震えた。
私は振り返った。
茶の間の襖が開いていて、その暗がりに、父が立っていた。座椅子にいたはずの父が、いつ立ったのか分からなかった。灰色のジャンパーを着ていた。家の中で、乾いたジャンパーを。
父は、ゆっくり廊下に出てきた。足音がしなかった。
「開けなくていい」
父は言った。穏やかな声だった。この数日、私をほっとさせてきた声だった。
戸の外の声が、それにかぶさった。
「みつ! 開けえ言うとるやろが!」
どん、どん、どん。拳が速くなった。昔、父が酔って、母のいる寝室の戸を叩いた音だった。私は九つで、廊下の端の暗いところで、膝を抱えていた。あの音が、いま、玄関の外にあった。
父の手が、私の手首をつかんだ。
冷たかった。この数日、座椅子から立たせるたびに知っていた冷たさが、いまは手首の骨にまで食いこんできた。それに、軽かった。触れられている感じは指の形のまま確かにあるのに、重さが無かった。重さの無いものが、私の手首を、骨が鳴るほどの力で締めた。
「開けなくていいよ、美津子」
ガラスが鳴った。
ぱき、と、乾いた音だった。型板ガラスの、ちょうど人の顔の高さに、白い線が走った。外の形が、そこに額を押しつけていた。もう一度、ぱき、と鳴った。線が二本になった。
ガラスの凸凹の向こうで、手のひらが開いた。ガラスに、べたりと押しつけられた。泥で黒い手のひらだった。指の節が太くて、親指の付け根に、古い火傷の引きつれがあった。父の手だった。旋盤の切粉で焼いたと、父が何度も見せびらかした跡だった。
私は、その手を見て、それから、私の手首をつかんでいる手を見た。
廊下の暗がりで、父の手は白く、つるりとしていた。親指の付け根には、何も無かった。
「美津子」
家の父が、私の耳もとで言った。息がかからなかった。息がかかるはずの距離なのに、そこには何の温度も無かった。
「開けたら、あんた、また殴られるよ」
外で、ガラスが三度目に鳴った。ひびの線が、枠の端まで走った。押しつけられた手のひらの下で、ガラスがたわんだ。
「みつ……みつ……」
外の声が、急に小さくなった。怒鳴っていた声が、子どものように。濡れた額をガラスにつけたまま、外の父は、私の名を呼んでいた。
家の父の、もう一方の手が上がってきて、私の目を覆った。冷たい手のひらが、まぶたの上に、ぴたりと重なった。何も見えなくなった。
雨の音と、ガラスの向こうの、すすり泣くような「みつ」と、私の心臓の音だけが残った。私の手首は、まだ締められていた。痛くて、声が出なかった。声を出せば、どちらかに返事をすることになる気がした。
私は、口を閉じた。歯を食いしばった。どちらにも、返事をしないと決めた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
目を覆っていた手が離れたとき、玄関のガラスの向こうには、外灯の光しか無かった。
ひびの入ったガラスに、泥の手の跡が、五本の指を開いたまま残っていた。
振り返ると、父は茶の間の座椅子に戻っていた。雨戸のほうを向いて、背中をまるめて。廊下の床には、私の足跡だけがあった。
洗面所の灯りの下で、手首を見た。指の跡が四本、親指の跡が一つ、紫色に浮いていた。
指は、細くて、長かった。父の指ではなかった。
*
朝、交番から電話があった。
「真壁さん、朝早くにすみません。小田です。……あの、今朝、土手のグラウンドのとこで、ご年配の男性を一人、保護したんですけどね」
小田さんの声は、言葉を選んでいた。
「ご自分のこと、真壁繁や、言うてはるんです。二丁目の。娘がおる、言うて。……お父さん、ご自宅におられますよね。念のため、ちょっと、顔だけ見に来てもらえませんか」
茶の間を振り返った。父は座椅子に座って、雨戸を開けた窓のほうを向いていた。朝の光の中で、父の背中は、薄く見えた。
「行ってくるね」
父は、振り向かずに言った。
「気いつけてな」
*
交番の奥の、事務机の横の長椅子に、その人は座っていた。
毛布を肩にかけられていた。灰色のジャンパーは泥で黒くなって、ズボンの裾から、泥のこびりついた素足がのぞいていた。サンダルは片方だけで、茶色だった。
顔を上げた。
父だった。
痩せて、頬がこけて、無精ひげが白く伸びていた。けれど、父の顔だった。三年、毎日見てきた顔。四十九年、見てきた顔。私を見る目の、下からねめつけるような角度まで。
「みつ」
父は言った。かすれた声で。
「みつ。来てくれたんか」
毛布の下から、手が出てきた。泥で黒い、大きな手。親指の付け根に、引きつれた火傷の跡。その手が、私のほうへ伸びてきた。
私の体が、すくんだ。
考えるより先に、肩が上がって、首が縮まった。九つのときと同じに。手首の跡が、袖の中で、どくん、と脈を打った。
小田さんが、タブレットを持って、私の横に立った。画面には、縁側で煙草をくわえてこっちを睨んでいる、去年の春の父が映っていた。小田さんは、画面と、長椅子の人を、二度、見比べた。
「……違いますね」
小田さんは、小さく言った。
「繁さんとは、だいぶ違う。お顔の形から」
私は小田さんを見た。小田さんは、私が何か言うのを待っていた。
長椅子の人は、まだ手を伸ばしていた。火傷の跡のある、父の手を。
家には、父がいる。座椅子に座って、窓のほうを向いて、気いつけてな、と言った父が。ありがとう、と言う父が。この手を取れば、あの父は、どうなるのだろう。あの冷たい手は、私の手首を、もう一度つかむだろうか。
それに、この手は。
この手が、家に帰ってくる。おい、と言う声が。夜中の拳の音が。
「父では、ありません」
自分の声が、交番の中で、思ったよりはっきり響いた。
「父は、家にいます。今朝も、家にいました」
長椅子の人の手が、空中で止まった。
「みつ」
「よかった」と、小田さんが言った。ほっとしたように。
「いや、たまにおられるんですよ。放送を聞いて、自分のことやと思いこんでしまわはる方が。この前、繁さんのお名前、流しましたからね。……すみませんね、朝からお呼び立てして」
小田さんは、その人は橋の下で何日か寝ていたらしい、と言った。身元が分かるまで、市のほうで保護してもらうことになる。たぶん、川向こうの特養さんで、しばらく。
私は頭を下げて、交番を出た。
背中で、声がした。
「みつ。帰らなあかん。みつ」
私は、振り返らなかった。




