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四

二十四日に、りんどうを買った。


駅前の花屋に、鉢植えしかなかったので、鉢ごと買って帰った。父は、仏壇の前に座って、鉢を母の写真の横に置かせた。手を合わせて、長いこと動かなかった。


「和子、きれいやろ」


父は写真に言った。それから、私を振り返った。


「美津子も、手え合わせ」


私は父の隣に座って、手を合わせた。何を母に言えばいいのか、分からなかった。目を閉じると、交番の長椅子が見えた。空中で止まった、火傷の跡のある手が。


手首の跡は、消えなかった。


一週間たっても、紫色が、黄色にも変わらなかった。四本の細い指と、親指の跡。私の指より、少し長い。毎朝、長袖の袖口を引っぱって、隠して仕事に出た。


夜は、眠れなかった。


眠ろうとすると、雨の音がした。降っていないのに。こつ、と、ガラスを叩く音がした。叩かれていないのに。茶の間では、父が、雨戸のほうを向いて座っていた。眠らない父と、眠れない私が、襖一枚をはさんで、朝まで起きていた。


一度だけ、二階で、畳を踏む音がした。二階の奥は、子どものころの私の部屋だった。もう何年も、誰も上がっていない。音は、部屋の端から端まで、ゆっくり歩いて、止まった。茶の間の父は、振り向かなかった。


ある夜、私は茶の間の襖を開けて、父の後ろに座った。


「お父さん」


父は、振り向かなかった。


「私、おらんようになったほうが、ええんかな」


自分で言って、自分で驚いた。言うつもりはなかった。口から、勝手に出た。


父は、ゆっくり振り返った。暗がりの中で、父の顔が、こちらを向いた。


「そんなこと、言うたらあかん」


穏やかな声だった。


「美津子は、ここにおったらええ。ずっと、ここに」


父は手を伸ばして、私の頭を撫でた。冷たい手が、髪の上を、何度も、ゆっくり動いた。


私は、子どものころ、父に頭を撫でられたことがなかった。


一度もなかった。


 *


九時十分のことを、私は何度も思い出した。


揚げ網を上げていた自分の手。油の匂い。佐野さんの、元気な証拠やわ、という声。同じ時間に、私の名前を名乗って、父が朝からおらん、と話していたものがいた。落ち着いた声で、はきはきと。眠れない夜、襖の向こうで父が座っている気配を聞きながら、私は、その声を一度も聞いていないことを考えた。どんな声だったのか、小田さんにも、聞けなかった。


川向こうの特養さん、と小田さんは言った。


土曜日の朝、私は茶の間の引き出しから、写真を一枚出した。去年の春、交番に渡したのと同じ写真の、焼き増しだった。縁側で、煙草をくわえて、こっちを睨んでいる父。


台所のテーブルで、それを見ていた。


後ろから、父がのぞきこんだ。冷たい、息のないものが、私の肩の上に来た。


「誰や、それ」


穏やかな声だった。


私は、写真を鞄に入れた。


その日の午後、私は、父に、買い物に行ってくる、と言って家を出た。


父は台所の椅子から、気いつけてな、と言った。


 *


ホームは、川の向こうの、田んぼの中にあった。受付で、市から預かっている男性の方のことで、と言うと、若い女の職員さんが出てきた。名札に、森、とあった。


「ご家族の方ですか」


「いえ。……前に、交番で、お会いして。身元のことで、もしかしたら、と思って」


森さんの顔が、少し明るくなった。お心当たりがあるんでしたら、ぜひ、と言って、談話室まで案内してくれた。


その人は、窓ぎわの椅子に座っていた。施設の青いジャージを着せられて、髭はきれいに剃られていた。窓の外の、川のほうを見ていた。


私が前に立っても、その人は私を見なかった。


「お名前、まだ分からはらへんのです」


森さんが、小さな声で言った。


「ご自分では、いろいろ言わはるんですけど、どれも合わへんで。……ただ、夕方になると、帰らなあかん、言うて。五時になると、毎日、玄関に立たはるんです。靴も履かんと」


私は、その人の前にしゃがんだ。


膝の上に、手が置かれていた。大きな手。親指の付け根の、引きつれた火傷の跡。


私は、その手に触った。


温かかった。


湿っていて、厚くて、温かかった。三年、毎日、座椅子から立たせるときに引いてきた手だった。九つの夏、私の頬を打った手だった。


その人は、窓の外を見たまま、言った。


「みつ」


私は、森さんを見上げた。


「この人は、父です」


森さんが、え、と言った。


「真壁繁です。私の父です。二丁目の。……私が、間違えました。交番で」


「あの……あなたのお名前も、いただけますか」


「真壁美津子です。娘です」


私は鞄から写真を出して、森さんに渡した。縁側で、煙草をくわえて、こっちを睨んでいる父。


森さんは、写真と、その人の顔を、何度か見比べた。困ったように笑って、それから笑うのをやめた。写真を持ったまま、何も言わなかった。


「あの、それやったら、市と警察のほうに確認させてもらわんと。お写真と照らし合わせたりもあるので……」


森さんの胸のポケットで、院内用の携帯が鳴った。森さんは耳に当てて、はい、はい、と言い、顔色を変えた。


「すみません、二階で、転ばはった方がおって。すぐ戻りますから、ここにいてくださいね」


森さんは写真を私に返して、走って廊下の向こうへ行った。


鞄の中で、携帯が震えた。取り出すと、画面に「自宅」と出ていた。


うちの電話から、かけてくる者は、一人しかいなかった。


私は、出なかった。震えが止まるまで、画面を見ていた。止まって、すぐにまた震えた。「自宅」。


お写真と照らし合わせて、と森さんは言った。小田さんのタブレットの、縁側で睨んでいる父の写真。違いますね、と小田さんは言った。待っていれば、また誰かが、この人の顔を見て、そう言う。


私は、携帯を鞄の底に押しこんで、父の手を引いた。


父は、何の迷いもなく立ち上がった。重かった。手を引くと、八十一年分の重さが、私の腕にかかった。


談話室の掃き出し窓は、風を入れるために、半分開いていた。


私たちは、そこから庭へ出た。花壇のあいだを抜けて、庭の端まで歩いた。職員の人たちが裏の畑に出入りする木戸は、掛け金が掛かっているだけだった。私は掛け金を外した。誰も、追ってこなかった。


 *


川に架かった橋を、二人で渡った。


橋の上で、また携帯が震えた。今度は、ホームの名前が出た。その次は、知らない番号だった。三度目に同じ番号が出たとき、私は出た。


「真壁さん? 小田です。今、どこにおられます」


私は答えなかった。


「ホームから連絡がありましてね。……真壁さん、その方は、ホームにお返しせなあきません。ご家族も、えらい心配してはりますよ。今、どこですか」


ご家族、と小田さんは言った。


私は電話を切った。鞄を胸に抱えて、また震えはじめたのを、腕で押さえて歩いた。


橋のたもとを、パトカーが一台、ゆっくり走っていった。赤い灯は回していなかった。窓の中で、制服の人が、河川敷のほうを見ていた。


私は父の手を引いて、土手の下の細い道へ降りた。


土手の道は、父のほうがよく知っていた。


私が右へ曲がろうとすると、父は私の手を引いて、こっちや、と言った。ススキの間の細い道だった。こんな道があることを、私は知らなかった。父は二度とも、この道を歩いて、あのベンチまで行ったのだと思った。


父の手は、大きくて、厚くて、温かかった。


殴られた手と、同じ手だった。九つの夏、私の頬を打った手。母の髪をつかんだ手。親指の付け根の、引きつれた火傷の跡が、私の手のひらに当たっていた。私はその手を、離さなかった。離したら、この人は、どこへでも行ってしまう。


父は歩きながら、ジャージの胸のあたりを、何度も手で叩いた。煙草を探すときの手つきだった。ハイライトは、家の座椅子の横に置いたままだった。


施設の青いジャージの袖が、歩くたびにずり上がった。父の右の手首に、時計の形をした跡が、白く残っていた。六十年、同じ手首に巻いてきた時計の、日に焼けなかったところ。


家に帰ったら、と私は考えていた。家に帰ったら、台所の椅子に座っているあれに、出ていって、と言う。それから、自分で交番に電話をする。小田さんに、本当のことを言う。どう言えばいいのかは、分からなかった。分からないまま、私は父の手を引いて、父は私の手を引いて、土手の道を歩いた。


家に着いたのは、五時の少し前だった。


台所の窓に、灯りがついていた。


私は父を門の内に立たせて、玄関の引き戸に手をかけた。動かなかった。内側の、ねじ締まりの鍵がかかっていた。私の持っている鍵では開けられない鍵だった。ガラスには、あの夜のひびが、ガムテープで留めたまま残っていた。


私は、戸を叩いた。


拳の横で、木の枠を。どん、どん、と。


「出てきて」


自分の声が、思ったより大きく出た。


「あんたは、父やない。ここは、父の家や。出てきて」


どん、と枠が鳴った。ガラスが、枠の中で震えた。


家の中から、返事は無かった。台所の灯りの中で、何かが、ことり、と置かれる音がしただけだった。


私の後ろで、父が、空を見上げた。


五時になった。


川のほうの柱のスピーカーと、小学校のスピーカーが、少しずれて、夕焼け小焼けを鳴らした。


チャイムが終わって、少し間があった。


「行方不明者のお知らせです」


私は、戸を叩く手を止めた。


「本日昼過ぎから、二丁目の、真壁美津子さん、四十九歳の、行方が分からなくなっています」


私は、自分の名前を、町じゅうのスピーカーから聞いた。


「身長、百五十五センチくらい。中肉。肩までの髪。紺色のカーディガンに、黒いズボン。白い運動靴を履いています。八十歳くらいの男性と、一緒にいる可能性があります。お心当たりの方は、警察署まで、ご連絡ください」


私は自分の胸もとを見下ろした。紺色のカーディガン。今朝、自分で選んで着た。


おらんようになったほうが、ええんかな。


そう言ったのは、私だった。暗い茶の間で、あの冷たい手に、頭を撫でられながら。


スピーカーが、二度目の文を読みはじめた。


真壁美津子さん。真壁美津子さん。


家の奥で、声がした。


「はあい」


女の声だった。二階から。子どものころの私の部屋のほうから、少し間延びした、呼ばれて返事をするときの声。


それから、階段を降りてくる音がした。一段ずつ、ゆっくり。


私の声だった。


九時十分に私の名前を名乗ったのも、この声だったのだろうか。


私は、もう一度、戸を叩いた。


「開けて。私や。美津子や。開けて」


台所で、湯を注ぐ音がした。


「お父さん、お茶。熱いよ」


「ああ」


穏やかな声が、答えた。


「りんどう、お水、替えといたよ。お母さん、好きやったもんね」


「ああ。ありがとう」


廊下を、誰かが歩いてくる気配がした。


私は、型板ガラスに額をつけて、中をのぞいた。凸凹の向こうは、ぼやけた黄色い灯りと、廊下の暗がりだけだった。


その暗がりが、ガラスのすぐ向こうまで来て、止まった。肩までの髪の、人の形だった。


私の額の、すぐ向こうで、ガラスに何かが当たった。


指の腹だった。細くて、長い指が、一本ずつ、ガラスに置かれていった。私の額をはさんで、ガラス一枚の向こうに。一本。二本。三本。四本。それから、親指。


私の手首の、紫色の跡と、同じ長さの指だった。


ガムテープの、端のめくれたところに、ひびが一筋、細く開いていた。その隙間に、向こうから、目が一つ、寄ってきた。


まばたきもせずに、私を見た。


私の目だった。毎朝、洗面所の鏡で見ている、少し下がった、右の目尻の小さなほくろまで。


私は額を離せなかった。ひび一筋をはさんで、私は、私に見られていた。


奥から、父の声がした。私の後ろにいる父ではない、家の中の、穏やかな声が。


「開けなくていい」


目が、少しだけ細くなった。笑ったのだと思った。


「知らん人や」


目が、ひびの隙間から離れていった。指が、一本ずつ、ガラスから離れていった。形が、廊下を戻っていった。台所の灯りの中で、湯呑みの触れ合う音がした。


隣の家の窓が開いた。


林のおばあちゃんが、顔を出した。戸を叩く音と、私の声を聞いたのだろう。私を見て、私の後ろの父を見て、もう一度、私を見た。目を細めて。いつか窓越しに、茶の間の父を見たときと、同じ目で。


「どちらさん?」


私は、何か言おうとした。林のおばあちゃん、と呼ぼうとした。九つの夏の夜、ススキの中から戻った私を、母より先に見つけて、勝手口を開けて入れてくれた人だった。


林のおばあちゃんは、少し気味悪そうに私たちを見て、窓を閉めた。


台所で、女が笑った。私の声で。


父が、私の手を引いた。


「みつ」


父は、川のほうを見ていた。


「帰ろう」


どこへ、とは聞かなかった。私の手を握っている手は、温かかった。


私たちは、灯りのついた家に背を向けて、歩きだした。


 *


土手の上まで来たとき、後ろで、車の止まる音がした。


振り返ると、家の前に、パトカーが止まっていた。赤い灯は回していなかった。小田さんが降りてきて、帽子をかぶり直して、玄関の前に立った。


引き戸が、内から開いた。


灯りの中に、女が立っていた。肩までの髪の、紺色のカーディガンの女。小田さんに、深く頭を下げた。奥の廊下に、父の形が見えた。小田さんも、頭を下げた。何か話して、女がもう一度頭を下げて、小田さんは笑った。


走って戻れたのかもしれない。土手を駆け下りて、小田さん、と呼べば。私が美津子です、と。


そうすれば、小田さんは私の隣の人を見る。青いジャージの、名前の分からない老人を。この人は、また窓ぎわの椅子に座らされる。五時になるたびに、靴も履かんと、玄関に立つ。帰らなあかん、と言って。


それに、林のおばあちゃんの細めた目を、私はもう見ていた。


父の手が、私の手の中にあった。温かかった。


私は、その手を離さなかった。


引き戸が閉まった。


小田さんが、ふと、土手のほうを見上げた。


目が合った、と思った。私は、父の手を握ったまま、動かなかった。声を上げれば、届いたかもしれなかった。


小田さんの目は、私たちの上を、ススキの穂を見るのと同じように通り過ぎた。小田さんはパトカーに戻って、川とは反対のほうへ走っていった。


六時に、スピーカーが鳴った。


「先ほどお知らせしました、二丁目の、真壁美津子さんは、無事、発見されました。ご協力、ありがとうございました」


川のほうの柱のスピーカーと、小学校のスピーカーが、少しずれて。


父が、もう一度、私の手を引いた。


私たちは、ススキの間の細い道を、川のほうへ降りていった。


日が落ちて、ススキの穂だけが白く浮いていた。川の音が近くなった。


ススキの奥で、誰かが呼んでいた。


みつこ。


遠くて、細い声だった。


みつこ。みつこ。


九つの夏の夜に、この土手で聞いた声だった。あの夜、私は返事をしなかった。返事をしたら、連れて帰られると思った。


父が立ち止まって、私を見た。


みつこ、と声がまた呼んだ。すぐ近くで。ススキの、一本向こうで。


私は、返事をした。


「はい」

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