二
次の朝、父は六時に起きて、左の手首に時計を巻いた。
縁側には出なかった。台所の椅子に座って、私が味噌汁を温めるのを待っていた。ハイライトの箱は、茶の間の座椅子の横に、きのうのまま置いてあった。灰皿には、きのうの朝の吸い殻が一本だけ残っていた。
「お父さん、煙草は」
父は、箱のほうを見た。見て、少し考えて、言った。
「ええわ」
六十年、吸ってきた人だった。肺に影があると言われた年も、母の葬式の日も、父は縁側で吸った。
味噌汁を出すと、父は両手で椀を持って、ひと口すすって、言った。
「ありがとう」
私は鍋の前で、しばらく動けなかった。
*
七時半に、林のおばあちゃんがゴミ袋を提げて通った。父は縁側に出ていなかったので、私が門まで出た。
「きのう、放送で繁さんの名前聞いて、びっくりしたわ。すぐ見つかってよかったなあ」
「それが、おったんです、家に。間違いやったみたいで」
林のおばあちゃんは、へえ、と言って、家のほうを見た。茶の間の窓に、父の横顔が見えた。父はこちらを向いて、窓越しに、ゆっくり頭を下げた。
林のおばあちゃんは、頭を下げ返さなかった。目を細めて、窓のほうを見ていた。
「繁さん、頭下げはったわ」
「最近、ちょっと落ち着いてて」
「ふうん」
林のおばあちゃんは、ゴミ袋を持ちかえた。
「昔はな、この辺でも、子どもや年寄りがおらんようになったら、鉦叩いて、名前呼んで、川のほうまで探しに行ったもんよ。あんたのお母さんも、行ったことあるわ。あんたがちっちゃいころ、一ぺん」
私が九つの夏のことだと、すぐに分かった。夜中に、裸足で、この家から逃げたときのこと。私は土手のススキの中にいて、母の声を聞いた。みつこ。みつこ。返事をしなかった。返事をしたら、連れて帰られると思った。明け方、自分で戻ってきた私を、勝手口を開けて入れてくれたのは、林のおばあちゃんだった。
「呼んだらな、返事はあるんよ」
林のおばあちゃんは、川のほうを見ていた。
「どっから返ってきたんかは、分からんけどな。……見つからんかったもんは、川のほうへ行った、言うてな」
それだけ言って、林のおばあちゃんはゴミの集積所のほうへ歩いていった。
*
その日、仕事から帰ると、父が台所の椅子から言った。
「美津子。二十四日、和子の誕生日やな」
母の誕生日を、父が口にしたのは、母が死んでから初めてだった。生きているあいだも、覚えていたことがあったのか、私は知らない。
「りんどう、買うてきてくれるか。和子、好きやったやろ」
私は、知らなかった。母が何の花を好きだったのか。最後の一年、この家に戻って一緒に暮らして、病院でも毎日顔を見ていたのに。
次の朝、門の前で、林のおばあちゃんに聞いた。
「母、りんどうが好きでしたか」
「そうよ。秋になったら、裏の土手に咲いとるの、いっつも摘んできてたわ。繁さんに、花なんか、て怒られながら」
林のおばあちゃんは、それから、私の顔をじっと見た。
「あんた、知らんかったん」
その日、仕事から帰ると、家の中が暗かった。灯りをつけると、父が仏壇の前に座っていた。母の写真に向かって、小さく、何度もうなずいていた。誰かに話しかけられて、返事をしているように。
私が、ただいま、と言うと、父はうなずくのをやめて、こちらを向いた。
「おかえり、美津子」
*
父は、優しくなった。
食事のたびに、ありがとう、と言った。私が洗濯物を取りこんでいると、縁側まで来て、端を持った。私の名前を、毎日呼んだ。美津子、と、穏やかな声で。
ケアマネージャーの人が前に言っていた。認知症には、波があります。急に昔に戻ったように落ち着く時期もあります。私は、そういう時期なのだと思うことにした。思うことにした、ということを、自分で分かっていた。
父の手は、冷たかった。
座椅子から立たせるとき、私は父の手を引く。三年、毎日そうしてきた。父の手は大きくて、厚くて、いつも少し湿っていた。その手が、今は乾いていて、冷たかった。冷蔵庫から出したばかりのもののように、芯まで。それに、軽かった。手を引くと、父の体は、私が引いたぶんだけ、何の重さも無くついてきた。
夜、父は横にならなかった。布団を敷いても、敷いたままにして、茶の間の座椅子に座っていた。雨戸を閉めた窓のほうを向いて。
五時になると、父は必ず、窓のほうを向いた。夕焼け小焼けが鳴っているあいだ、じっと、川のほうのスピーカーのある方角を見ていた。
三日目の夜、流しで茶碗を洗っていて、急に涙が出た。
九つの夏の夜を、思い出していた。父の拳。母の髪をつかんだ手。ススキの中で、聞いた母の声。あの家に、今、ありがとう、と言う父がいる。私はずっと、こういう父がほしかった。ほしかったものが、台所の椅子に座っている。
それが、父ではないかもしれないと、私はもう思っていた。
*
四日目の夜中に、目が覚めた。
二時を過ぎていた。トイレに行こうとして、廊下に出ると、茶の間の襖が少し開いていて、父が座椅子に座っているのが見えた。暗い中で、雨戸のほうを向いて。
台所の奥で、音がした。
こつ。
勝手口だった。台所の奥の、裏の路地に出る、すりガラスの戸。
こつ。
こつ。
間を置いて、同じ高さで。爪の先で叩くような、小さな音だった。
私は廊下に立ったまま、動けなかった。勝手口のすりガラスに、外灯の光が、ぼんやり白く映っていた。その白さの中に、何かの影が、かかっているように見えた。
「お父さん」
小さな声で呼んだ。父は、雨戸のほうを向いたまま、言った。
「風や」
音は、それきりしなかった。
朝になって、勝手口を開けた。路地の土の上に、サンダルの跡があった。泥で、くっきりと。勝手口の前で行ったり来たりした跡が、庭を回って、玄関の前まで続いていた。それから、裏の路地へ出て、川のほうへ。
玄関に戻って、たたきを見た。父の茶色のサンダルが、無かった。
いつから無かったのか、思い出せなかった。父はこの四日、一度も外へ出ていない。だから、気がつかなかった。
放送は、言っていた。茶色のサンダルを履いています。
私は交番に電話をした。小田さんが来て、路地の足跡を見て、首をひねった。
「どこかの徘徊の方が、迷いこまはったんかもしれませんね。この辺、何軒か、そういうお宅ありますから。夜、回るようにしときます」
小田さんは、茶の間の父に、こんにちは、と声をかけた。父は、いつもお世話になります、と頭を下げた。小田さんは、帰りぎわに私に言った。
「そうそう、このあいだの朝の110番ね。調べたら、お宅の電話からかかってましたわ。お父さんが、かけはったんかもしれませんね。娘の名前、言うてしまわはったんかな」
小田さんは、笑って言った。
「お父さん、ほんまに落ち着かはりましたね。よかったですね」
よかった、と私は言った。
*
五日目、仕事の帰りに、土手へ回った。
自転車を土手の上に止めて、河川敷を見下ろした。グラウンドには誰もいなかった。日が傾いて、ススキの穂が、川からの風で一方に寄っていた。
三塁側の、古い木のベンチに、人が座っていた。
背中だけが見えた。灰色のジャンパー。白髪。痩せた肩が、少し右に傾いている。父の座り方だった。腰を悪くしてから、父はいつも、右に傾いて座った。
私は、土手の上に立っていた。
呼ぼうとした。お父さん、と。去年の春も、今年の夏も、私はここで父を見つけて、そう呼んで、駆け下りていった。
声が出なかった。
父は、家にいる。台所の椅子に座って、私の帰りを待っている。あそこにいる背中は、父のはずがない。けれど、私が呼べば、あの背中は振り向く。振り向いた顔が父の顔だったら。父の顔ではなかったら。どちらでも、私はもう、家に帰れなくなる気がした。
背中が、少し動いた。首が、ゆっくり、こちらへ回りはじめた。
そのとき、五時になった。
川のほうの柱のスピーカーが、すぐ近くで、夕焼け小焼けを鳴らしはじめた。私の体が、音に押されるように、後ろへ下がった。私は自転車に飛び乗って、振り返らずに、土手を走った。
家に帰ると、父は台所の椅子に座って、窓のほうを向いていた。チャイムは、もう終わっていた。
「おかえり、美津子」
父は、私を見て、優しく笑った。
私が子どものころ、一度も見たことのない顔だった。




