三
倉庫の仕分けは、朝の六時から昼の三時までだった。
冷蔵のレーンで、組合員番号の札がついたコンテナに、品物を詰めていく。豆腐、牛乳、ちくわ。番号ごとに、毎週同じものを詰める家がある。私は、その番号を見ないようにした。高野さんの番号は、もう、どこにも無いはずだった。
順路を外れて、二度目の木曜。
仕分けが終わって、駅前で夕飯を買って、部屋に帰ったのは九時過ぎだった。マンションの外廊下の、三つ目の蛍光灯が、ちかちかしていた。私の部屋は、その下にある。
ドアの脇に、箱が置いてあった。
青い折りたたみのコンテナだった。壁に寄せて、ドアの脇の、置き場所を決めてあるような位置に。蓋の上に、不在の連絡票が挟まっていた。
生協です。ご不在でしたので、玄関前に置かせていただきました。
担当者の欄は、空白だった。
私は、その箱を見下ろして、しばらく立っていた。廊下の蛍光灯が、ちかちかと瞬くたびに、青いコンテナの色が、濃くなったり薄くなったりした。
蓋に手をかけた。留め具を外した。ぱちん、と乾いた音がした。
臭いが、顔に当たった。
中に、品物が詰まっていた。牛乳のパック。豆腐。ちくわ。食パン。卵。はちみつの飴の袋。どれも、開けられていなかった。牛乳のパックは角が丸く膨らんでいて、豆腐の容器の中で、水が黄色く濁っていた。食パンの袋の内側が、緑と白の綿のようなもので曇っていた。
賞味期限の日付は、どれも七月だった。
七月の第一木曜、第二木曜、第三木曜、第四木曜。私が四階の戸口に置いた、四週分だった。
台所に、並んでたんです。床に。開けないまま。
誠さんは、業者に頼んで、部屋の中のものを全部処分したと言っていた。
私は蓋を閉めた。留め具をかけ直した。そのまま、箱を抱えて、エレベーターで一階に下りて、マンションの裏のごみ集積所まで運んだ。可燃の日ではなかった。分別もしなかった。箱ごと、集積所の奥の隅に置いて、上にネットをかぶせた。
センターに電話をした。夜間の当番が出た。今日、この住所に配達の記録はあるか。当番は端末を調べて、ありません、と言った。組合員の登録もありませんね、と付け足した。
*
翌日、集積所の箱は無くなっていた。
収集の日ではなかった。管理人に聞くと、知らないと言った。
*
次の木曜も、箱は戸口にあった。
青いコンテナが一つ。壁に寄せて、同じ位置に。蓋の上に、不在の連絡票。担当者の欄は空白。
コンテナの側面に、黄色いシールが一枚、貼られていた。このごみは収集できません、と印刷してあった。マンションの集積所で、分別されていないごみに管理人が貼るシールだった。
私は、それを開けなかった。見ないようにして鍵を開け、部屋に入り、ドアを閉めた。箱は外に置いたままにした。チェーンをかけた。
その夜、物音で目が覚めた。
ぱちん、と乾いた音がした。少しあいて、もう一度。コンテナの留め具を外す音だった。六年間、毎日、何百回も聞いてきた音だから、間違えようがなかった。
外に置いたはずの箱の音が、台所から聞こえていた。
時計は二時を過ぎていた。私は布団の中で、息を止めて聞いた。
冷蔵庫の扉が開く音がした。中の明かりが、寝室の戸の下の隙間から、細く白く漏れてきた。扉は閉まらなかった。開いたまま、冷蔵庫が低く唸りはじめた。
それから、台所の床に、何かを置く音がした。
とん。
少しずれた場所に、とん。
とん。とん。
一定の間隔で、まっすぐに。私は布団を頭までかぶった。音は止まなかった。冷蔵庫の前から、少しずつ、こちらへ寄ってきた。台所の端に、とん。廊下の床に、とん。
寝室の戸の前で、とん。
音が止んだ。
冷蔵庫の唸りだけが、続いていた。臭いが、戸の隙間から流れこんできた。甘くて、重くて、喉の奥に貼りつく臭い。七月の第四木曜に、四階の踊り場で嗅いだのと同じ臭いだった。
寝室の戸が、ひとりでに、開いた。
細く。冷蔵庫の白い明かりが、斜めに、畳の上に伸びてきた。光の帯の、ちょうど戸口のところに、牛乳のパックが一つ、置かれていた。膨らんで、角の丸くなったパックが。
私は、布団から這い出した。戸を閉めようとしたのだと思う。閉めて、何かで押さえようと。戸口まで這って、手を伸ばして、廊下が見えた。
廊下の床に、品物が一列に並んでいた。豆腐。ちくわ。卵のパック。食パン。冷蔵庫から漏れる明かりの中で、どれも膨らんでいた。列は、寝室の戸口から、廊下を通って、台所の冷蔵庫の前まで続いていた。
列の向こうの端に、誰かがしゃがんでいた。
背中を丸めて、こちらに背を向けて。小さな背中だった。エプロンの紐が、腰の後ろで蝶々に結んであった。白地に、青い小花の柄。毎週木曜、四階の玄関で、飴を出すたびにそのポケットに手を入れていた。
しゃがんだ背中が、手を伸ばして、冷蔵庫から最後の一つを取り出して、床に置いた。とん。
それから、動かなくなった。
私は寝室の戸口に膝をついていた。足が、床に貼りついていた。声を出そうとして、喉が鳴っただけだった。
背中が、ゆっくりとこちらを向いた。
顔は、高野さんの顔ではなかった。高野さんの顔だったものだった。膨らんで、黒ずんで、目のあたりが落ちくぼんで、口が半分開いていた。首の皮膚が、襟から垂れ下がっていた。髪が、頭の片側だけ、ごっそり無かった。
高野さんが、両手を床についた。
それから、速かった。
膝と手のひらで、床を這ってきた。年寄りが畳の上を這うときの這い方だった。ただ、速かった。列を蹴散らして、まっすぐにこちらへ来た。牛乳のパックが倒れて破れ、廊下に白いものが広がった。逃げようとして、私は背中から寝室の柱にぶつかった。高野さんの手が、私の右の手首をつかんだ。
冷たかった。濡れた紙のように柔らかかった。指が、手首に巻きついて、締まった。締まると同時に、指の皮が、ずるりと滑った。高野さんの指の皮が、私の手首に貼りついて、残った。
高野さんの顔が、私の顔に寄ってきた。半分開いた口が、私の口の前に来た。口の奥から、冷たい息が流れてきた。臭いの、いちばん濃いところだった。
私は息を止めた。顔を背けた。首の筋が切れるかと思うほど、背けた。吸ったら、終わりだと思った。なぜそう思ったのかは分からない。体のほうが、先に知っていた。
高野さんは、引いた。
私の体は、前へ倒れた。腹から廊下に落ちて、そのまま、引きずられた。床に並んでいた品物が、私の体の下で潰れた。卵が割れる感触が、胸の下でした。
玄関のドアが、勝手に開いた。チェーンは、外れていた。
外廊下の蛍光灯が、ちかちかと瞬いていた。私は左手で戸の枠をつかんだ。高野さんは、私の右の手首をつかんだまま、廊下へ這い出ていく。私の腕が伸びきった。肩の関節が、軋んだ。
高野さんは何も言わなかった。中まで、とは言わなかった。言わずに、引いた。外廊下を、階段のほうへ。どこへ連れていくつもりなのか、分からなかった。
私の指が、戸の枠から一本ずつ剥がれていった。
最後の一本が離れたとき、私は叫んでいた。自分の声とは思えない声だった。
*
肩を揺すられて、目を開けた。
外廊下の、コンクリートの床の上だった。空が白んでいた。隣の部屋の女の人が、しゃがんで私の顔をのぞきこんでいた。夜勤明けらしく、制服の上着を腕にかけていた。
「大丈夫ですか。救急車、呼びます?」
私は首を振った。体を起こした。廊下の、私の部屋のドアから三メートルほど離れたところだった。ドアは開いていた。
廊下にも、部屋の中にも、品物は何も無かった。潰れた卵も、こぼれた牛乳も。
右手に、何かを握っていた。指を開くと、くしゃくしゃになった紙が出てきた。
注文書だった。高野さんの組合員番号。男性用肌着、L、一。歯ブラシ、二。茶碗、一。箸、一膳。7に、横棒。山根さんがシュレッダーにかけたはずの、四階の戸口の注文書と、同じ注文だった。
隣の人は、注文書を握っていた私の右手を見ていた。
手首に、黒い跡がついていた。指の形だった。四本と、内側に親指が一本。痣の色ではなかった。皮膚の下ではなく、上に貼りついた黒さだった。
隣の人は、何か言いかけて、鼻に手をやって、やめた。
*
手首の跡は、洗っても落ちなかった。
石鹸で擦り、たわしで擦り、皮膚が赤く剥けても、黒い指の形は、その上に残っていた。臭いも残っていた。袖を下ろしても、袖の中から、四階の踊り場の臭いがした。
誰かに言わなければ、と思った。携帯の連絡先を開いた。所長。山根さん。戸田くん。元の妻の名前は、まだ消していなかった。指が、その上で止まった。三年、一度もかけていない番号だった。かけて、何と言えばいいのか。私は画面を消した。
その日から二晩、駅の向こうのビジネスホテルに泊まった。
二晩目の明け方、部屋のドアの外で、ぱちん、と音がした。
私はベッドの上で、朝まで動かなかった。七時を過ぎて、廊下に清掃の台車の音がするようになってから、ドアを細く開けた。
ドアの脇に、青いコンテナが置いてあった。蓋の上に、不在の連絡票が挟まっていた。生協です。ご不在でしたので、玄関前に置かせていただきました。
私は、チェックアウトして、部屋に帰った。
台所の床にも、跡があった。
冷蔵庫の前の、フローリングの上に。人がしゃがんでいたくらいの大きさの、黒っぽい、湿った跡。私は雑巾で、それを拭いた。拭いても、拭いても、雑巾が黒くなった。床の色は、戻らなかった。
それから、戸口の箱は来なくなった。次の木曜にも。その次の木曜にも。
来ないことが、少しも、終わったようには思えなかった。台所のテーブルの上に、くしゃくしゃの注文書が、広げたまま置いてあった。私は、それを捨てられなかった。手首の跡は、毎朝、同じ形のまま、冷たかった。
待たれているのだと思った。




