四
十月の第二木曜、仕分けの休憩のときに、センターのロッカーを開けた。
奥に、紙袋が押しこんであった。順路を外された日に、戸田くんにトラックを引き継ぐ前、ダッシュボードの中身を全部突っこんだ袋だった。地図と、伝票の束と、ボールペンと、はちみつの飴の包み紙。
その底に、小さな紙の束があった。輪ゴムで留めてあった。
高野さんのメモだった。注文書に挟まって戻ってくる、メモ用紙を四つに切ったくらいの紙。私は回収のときにそれを抜いて、ろくに読まずにダッシュボードに挟んできた。三年分あった。
ロッカーの前の床に座って、一枚ずつ開いた。
坂口さんへ 暑いので水分をとってください。
坂口さんへ 先週はありがとう 腰はもういいです。
坂口さんへ 雨の日は 置いといてくれていいのよ。
坂口さんへ 息子から電話がありました 元気そうでした。
坂口さんへ お正月は 息子はこないそうです。
坂口さんへ 主人の命日でした。
日付は無かった。字が、少しずつ揺れていった。7の横棒が、だんだん長くなった。
最後の一枚は、六月の終わりの木曜の分だった。私が玄関のたたきに箱を置いて、すみません決まりで、と言った日の。
坂口さんへ 中まで来てくれたら お茶いれるのに。むりよね。
その次の週から、メモは無かった。注文書だけが戻ってきていた。
休憩の終わりのチャイムが鳴った。私は、メモの束を握ったまま、立てなかった。
*
仕事が終わってから、駅前のスーパーに寄った。
男物の肌着のLを一枚。歯ブラシを二本。茶碗を一つ。箸を一膳。
台所のテーブルに広げたままの、くしゃくしゃの注文書のとおりに。
倉庫の隅に、角の割れた折りたたみのコンテナが、廃棄に回すために積んであった。その一つを、もらって帰った。部屋で組み立てて、買ってきたものを、一つずつ入れた。いつもの詰め方で。重いものを下に、割れるものは間に挟んで。
最後に、ポケットに入れたままだった、はちみつの飴を一つ、入れた。三階の家の箱の底から転がり出た、あの飴だった。
蓋を閉めて、留め具をかけた。ぱちん、と音がした。
いつもの木曜の、いつもの箱の形になった。
これを中まで運べば終わる、と私は思っていた。高野さんが頼んだのは、それだけだったのだから。
*
団地に着いたのは、十一時を過ぎていた。
四号棟の階段の明かりは、二階の分が切れていた。私はコンテナを抱えて、暗い踊り場を上がった。三階を過ぎた。臭いは、しなかった。
四階の、高野さんの部屋のドアが、少しだけ開いていた。
隙間から、暗い玄関が見えた。たたきに、靴は一足も無かった。
「高野さん」
返事は無かった。
「生協です」
自分の声が、階段の上下に響いた。
私はコンテナを抱えたまま、靴を脱いで上がった。六年通って、初めて、たたきから上に足を乗せた。
部屋は空だった。家具も、カーテンも、何も無かった。畳は剥がされて、下地の板が出ていた。台所の床だけが、新しいクッションフロアに張り替えられていた。白っぽい、木目の柄の。
私はそこまで運んだ。台所の真ん中に、コンテナを下ろした。蓋を開けて、肌着と、歯ブラシ二本と、茶碗と、箸を、床の上に並べた。一列に。
「中まで、運びました」
何も起きなかった。
私はしばらく、そこに立っていた。冷蔵庫の無い台所の壁に、冷蔵庫の形の日焼けの跡があった。何も聞こえなかった。臭いも、しなかった。
玄関に戻った。ドアは、開いたままだった。チェーンは、かかっていなかった。
階段を下りながら、私は、自分が泣いていることに気がついた。
*
部屋に帰ったのは、一時前だった。
鍵を開けて、玄関の明かりを点けた。
たたきに、靴が一足、増えていた。
私の運動靴の隣に、小さなつっかけが、揃えて脱いであった。女物の、踵のすり減った、茶色いつっかけだった。四階の玄関で、高野さんが毎週、箱を受け取るときに履いていたものだった。
私は、台所の明かりを点けた。
テーブルの上に、茶碗が一つ、置いてあった。箸が一膳、その手前に、揃えて添えてあった。
茶碗の底に、スーパーの値札のシールが貼ったままになっていた。
さっき、あの部屋の床に並べてきた茶碗だった。
私は、洗面所へ行った。洗面台のコップに、歯ブラシが二本、立っていた。透明な柄の、新しい歯ブラシが、二本。毛先が、少しも開いていなかった。
私の青い歯ブラシは、どこにも無かった。
シャツの胸ポケットに、固いものが入っていた。指を入れると、黄色い包み紙の飴が出てきた。四階の台所に、箱ごと置いてきたはずの飴だった。
寝室の布団の上に、男物の肌着が、畳んで置いてあった。Lの。
あなた大きいから、シャツはLでしょう。うちの主人もね。
中まで、運んでくれない?
私は、運んだ。
右の手首の跡が、袖の下で、冷たく疼いた。袖をまくると、黒い指の形の先が、手の甲のほうへ、にじむように伸びていた。
*
それから、仕事に行けなくなった。
所長に電話をして、しばらく休ませてほしいと言った。村井さんは何も聞かなかった。代わりに、木曜の帰りに、戸田くんが様子を見に寄ることになった。順路の終わりに、少し回り道をすれば寄れるのだという。
最初の木曜、戸田くんはチャイムを鳴らして、ドア越しに言った。
「坂口さーん、戸田です。所長が、これ持ってけって。うちの商品ですけど。置いときますね」
少し間があって、戸田くんの声が続いた。
「そういえば、四階。坂口さんに言われてたやつ。先週から、箱、出なくなりました」
私は寝室にいた。はい、と言ったと思う。戸田くんの足音が、外廊下を遠ざかっていった。
その夜、私は台所の椅子で目を覚ました。
いつ寝室から出てきたのか、覚えていなかった。台所の明かりは消えていた。右手に、鉛筆を握っていた。指が、鉛筆から離れなかった。手首から先が、黒かった。指の形の跡は、もう、指の形をしていなかった。
私の前に、茶碗と箸があった。テーブルの向かいの椅子が、引かれていた。
暗くて、よく見えなかった。小さな肩の形だけが見えた。それは、テーブルに両手をついて、ゆっくりと、こちらへ身を乗り出してきた。
臭いが、来た。
顔が、私の顔の前で止まった。鼻の先が、触れそうなところで。その口の奥から、冷たい息が流れてきた。
私は息を止めた。あの夜と同じように。顔を背けようとした。首が、動かなかった。椅子の背に、体が押しつけられていた。高野さんは、待っていた。急がなかった。私が息を止めていられなくなるのを、顔の前で、じっと待っていた。
胸が焼けるように痛くなった。目の前が暗くなった。
私は、息を吸ってしまった。
*
次の木曜も、戸田くんは来た。
チャイムが鳴った。
「坂口さーん。戸田です。置いときますね」
私は、台所の床に座っていた。
床には、届いた分が、一列に並んでいた。冷蔵庫の前から、台所の端まで。開けないまま。私が並べたのだと思う。並べた覚えはなかった。
列の端の、私の座っているところの床が、黒く、湿っていた。
私の左腕に、小さな肩が寄りかかっていた。冷たくて、軽かった。
中まで来てくれ、と私は言おうとした。戸田くん、中まで来てくれ。ドアを開けて、ここを見てくれ。
口から出たのは、床に近い、低い声だった。
「置いといて」
私の声だった。けれど、言い方は、高野さんのものだった。
はーい、と戸田くんは明るく言った。
ドアの外で、前の週の箱を拾い上げる音がした。箱は、空になって、畳まれて、戸口に出ていたはずだ。蓋の上に、注文書が挟まっていたはずだ。郵便受けに届いた封筒の、あの注文書の束の一枚が。私の知らないうちに、書かれて。豆腐、二。牛乳、二。ちくわ、二。食パン、二。はちみつの飴、一。7に、長い横棒を入れて。
戸田くんは、それを持って、外廊下を歩いていった。足音が、遠ざかっていった。
毎週、来てたんでしょう。いつか誰かが、戸田くんにそう言うのだろう。
来週も、箱は、空になって戸口に出ているだろう。




