三
毎月十四日の月参りは、いつもは昼過ぎに来てもらっている。七月は、夜の八時にしてもらった。無理を言った。住職は、理由を聞かなかった。
住職は七十を過ぎていて、昼でも夜でも自転車で来る。玄関で草履を脱いで、優斗のスニーカーを一度見て、何も言わずに上がった。
優斗の部屋で、小さな経机を出して、お経を読んでもらった。仏壇は一階の和室にある。優斗の位牌もそこにある。それでも私は、月参りのお経だけは、優斗の部屋で読んでもらってきた。住職はそれについて何も言わない。
お経が終わっても、私は話を引き延ばした。お茶を二度いれ替えた。住職は時計を見たが、何も言わなかった。
九時を回って、住職はもう一度、短いお経を読みはじめた。
九時五十二分に、部屋の戸が叩かれた。
低いところを。三回。
住職の声が止まった。
数珠を持った手を膝に置いて、住職は戸のほうを向いた。戸の下の隙間から、廊下の明かりが細く入っていた。その明かりが、一か所だけ、何かに遮られていた。
住職はしばらく、その影を見ていた。
「許したら」と私は言った。「止まりますか」
住職は戸から目を離さずに、さあ、と言った。
「成仏させたいんやったら、許したらよろし。許しとうないんやったら、許さんでもよろし。わしは、どっちでもええと思てます」
戸の下の影は、動かなかった。
「片岡さん」
住職は、初めて私のほうを見た。
「この家で、あの子がいちばん残っとるとこは、どこです」
私は答えなかった。エプロンのポケットの上から、携帯を押さえていた。
住職はそれ以上聞かなかった。お経の続きを読み終えて、経机を片づけた。帰りしなに、部屋の戸を開けると、廊下には誰もいなかった。廊下の先で、莉子の部屋の戸が細く開いていて、私が目を向けると、音を立てずに閉まった。優斗の部屋の戸のすぐ前の床に、濡れた跡が三つあった。住職はそれをまたがずに、少し回りこんで階段へ行った。
玄関で草履を履きながら、住職は、えらい長い人やな、と言った。誰のことかは言わなかった。
*
その夜から、私は優斗の部屋の戸の前の廊下に、布団を敷いて寝るようになった。
達郎は何も言わなかった。莉子は、自分の部屋の戸を少し開けて、私の布団を見て、また閉めた。
三日目の夜、私は眠らずにいた。
廊下の明かりを消して、優斗の部屋の戸に背中をつけて、布団の上に座っていた。膝を抱えて、携帯の時刻を見ていた。五十分。五十一分。廊下の窓を開けても風は入らなかった。梅雨の終わりの、蒸し暑い夜だった。その週は、晴れが続いていた。
五十二分になった。
階段の上がり口で、ごつ、と鳴った。
暗がりの中、上がり口のあたりに、低いものがあった。床から、膝ほどの高さしかない。丸い背中だった。
それが、こちらへ来た。
歩くのではなかった。膝をついたまま、額を床から上げないまま、体を前へ押し出すようにして、少しずつ。額が床板をこする音がした。四メートルほどの廊下を、時間をかけて。
匂いがした。雨の夜の道路の匂いだった。濡れたアスファルトと、どこかで漏れた油の匂い。何日も雨の降っていない家の中に、それがあった。
私は戸に背中を押しつけた。後ろは優斗の部屋だった。
背中は、私の足もとまで来て、止まった。
携帯は、私の膝と胸のあいだで、時刻だけを光らせて、黙っていた。背中は、そちらへは一度も頭を向けなかった。
ごつ。
私の爪先の、すぐ先で、額が床を打った。床板が、足の裏に震えを伝えてきた。
濡れた髪が、私の足の甲に広がっていた。冷たかった。七月の夜の冷たさではなかった。冬の雨に打たれたあとの、骨まで冷えた冷たさだった。
ごつ。
私は言った。声が出るとは思っていなかった。
「許さへん」
背中は動かなかった。
ごつ。
三回目の音のとき、分かった。額は、私に向かって下げられているのではなかった。私の膝と膝のあいだの、その向こうの、戸の下を向いていた。私の後ろを。
私は、戸から離れた。
離れようと思ったのではなかった。背中が壁を滑って、体が横へずれていった。布団の端から、廊下の床へ。戸の前が空いた。
背中は、私がいたところへ、膝で進んだ。
額が戸の下に当たった。こん、こん、こん。低いところを、三回。
私は壁に肩をつけて、それを見ていた。
背中は、それきり見えなくなった。暗がりに溶けたのか、戸を通ったのか、分からなかった。戸の向こうで、優斗の部屋の床が、一度、きしんだ。
私は、そのまま朝まで、壁にもたれて座っていた。眠らなかった。窓が白んでから、戸を開けた。
優斗の部屋の中、戸のすぐ内側の床に、膝の跡が二つと、額の跡が一つあった。
私の足の甲には、乾いた砂のようなものがついていた。洗っても、昼過ぎまで、道路の匂いがした。
*
七月の終わりの日曜日に、私は野村さんの団地を訪ねた。
菓子折りの箱を返しに行った。中身は、蟻にやられたので捨てた。空の箱を紙袋に入れて持っていった。住所は、手紙の封筒の裏に書いてあった。
市の北の外れの、五階建ての団地だった。エレベーターは無かった。四階の端の部屋のチャイムを押すと、少しして、野村さんが出てきた。私の顔を見て、玄関の中で、膝をつこうとした。
「やめてください」
野村さんは、膝を半分曲げたまま、止まった。それから立ち上がって、どうぞ、と言った。
上がるつもりはなかった。けれど、玄関の奥の、開いた襖の向こうが見えた。四畳半くらいの部屋だった。窓際に小さな机があって、便箋の束が載っていた。
「あの子の部屋です」と野村さんは言った。
私は靴を脱いだ。
机の前の壁に、カレンダーが掛かっていた。六月のままだった。十四日に、赤い丸がついていた。
カレンダーの横に、新聞の切り抜きが画鋲で留めてあった。
三年前の、地方面の小さな記事だった。記事の文章は切り取られていて、写真だけが残っていた。高校の入学式の日に、私が校門の前で撮った写真だった。記者に頼まれて、学校を通して渡したものが、新聞に載ったのだった。優斗は、少し大きすぎる制服を着て、まぶしそうに笑っていた。
「謝るのが、長い子で」
野村さんが、後ろで言った。
「小学校の時、ボールで、隣の家のガラス割って。夜の九時まで、その家の前に座っとったんです。向こうの奥さんが、もうええよ、言うてくれるまで。わたしが迎えに行っても、立たへんかった」
私は写真を見ていた。
「片岡さん」と野村さんは言った。「会わせてやってもらえませんか。あの子を。優斗くんに」
私は手を伸ばして、画鋲を抜いた。
切り抜きは、壁から離れると、少し丸まった。後ろの壁紙に、日に焼けていない四角が、白く残った。
「これは、うちのです」
野村さんは、何も言わなかった。止めもしなかった。
私は切り抜きを紙袋に入れて、空の菓子折りの箱を机の上に置いて、靴を履いた。
「会わせへん」
ドアを閉める前に、そう言った。野村さんは、四畳半の入り口に立って、頭を下げていた。
家に帰って、私は切り抜きを、優斗の部屋の机の上の壁に、画鋲で留めた。入学式の朝、あの子はこの机で、ネクタイの結び方を調べていた。
その夜の跡は、机の前にあった。切り抜きの、真下だった。
私は、切り抜きの画鋲に指をかけて、それから、外さなかった。
*
莉子が来たのは、その週の夜中だった。
私は、あの夜からも、優斗の部屋の前の廊下で寝ていた。跡は、もう部屋の中にあった。戸の内側に一つ。切り抜きの真下の、机の前に一つ。
廊下の明かりの下で、莉子は私の布団の端に座った。パジャマの膝を抱えていた。
「手紙」と莉子は言った。「うち、読んどった」
私は体を起こした。
「二年前から。お母さんが仕事の日に、出して、湯気で開けて、読んで、糊で貼って、戻しとった。……気づいとったやろ。封」
私は答えなかった。
「お兄ちゃんのこと書いてあるの、あれだけやったから」
莉子は膝に顎を載せた。
「去年の秋に、一回だけ、返事書いた。お母さんは一生許さへん、て。謝るんやったら、お兄ちゃんに直接言うて、て」
廊下の窓の外で、遠くの道路を車が走っていく音がした。
「せやから、あの人、死んだんちゃうかって。会いに行きます、て、あれ、うちが」
莉子の声が、そこで途切れた。
「うちのせいや。……ごめん」
私は莉子の顔を見ていた。三年前の莉子は、もっと頬が丸かった。
「もう寝なさい」
莉子は、しばらく動かなかった。それから立ち上がって、自分の部屋に入って、戸を閉めた。
私は布団を出て、莉子の部屋の前まで行った。戸の向こうで、莉子が泣いていた。声を殺して、息だけで泣いていた。
私は戸の前に立って、手を上げた。叩こうとして、叩けなかった。
上げた手を下ろして、優斗の部屋の前の布団に戻った。
*
跡は進んだ。
机の前から、寝台の脇へ。私は毎朝、優斗の部屋の床を拭いた。部屋の物は一つも動かさなかった。トロンボーンのケースも、机の上の参考書も、壁の時間割も。拭いても、次の朝には、寝台のほうへ少し寄ったところに、新しい跡があった。
八月一日の朝、寝台の掛け布団の端が濡れていた。
床に垂れた端の、三十センチほどが、雨に打たれたように重く湿っていた。
その夜、台所で、莉子が言った。
「次は、お兄ちゃんの声や」
私は流しの前に立っていた。
「お母さんの携帯の中の。……あれ、お兄ちゃんがいちばん残っとるとこやろ」莉子は、私の背中に向かって言った。「消したら、来られへんのちゃう」
私は蛇口の水を止めた。なんで、とは聞かなかった。
居間から達郎が来た。
「消したらええ」と達郎は言った。「そんなもん」
私は振り向いた。
達郎は、自分が何を言ったか分かったようだった。口を開けて、閉じた。
「消さへん」
私はそう言って、エプロンのポケットの携帯を押さえた。
次の日、達郎は、野村さんのところへ線香をあげに行くと言って、昼過ぎに出ていった。私は行かなかった。夕方、帰ってきた達郎は、玄関で優斗のスニーカーを見下ろして、しばらく立っていた。
「壁にな」と達郎は言った。「四角い跡が、白う残っとった」
私は何も言わなかった。
明日が、四十九日だった。




