四
八月三日は、朝から暑かった。
事務所には、休むと電話した。二十年で初めて、理由を言わずに休んだ。所長は、ああ、そう、と言っただけだった。
一日、家にいた。優斗の部屋の床を拭いた。寝台の掛け布団の端は、昼になっても湿っていた。窓を開けて、蝉の声を入れた。携帯は、エプロンのポケットから出さなかった。
達郎も休みを取っていた。何も言わずに、居間で新聞を読んでいた。同じ面を、昼からずっと開いていた。莉子は自分の部屋から出てこなかった。昼に一度だけ下りてきて、冷蔵庫を開けて、牛乳無いな、と言った。誰も答えなかった。莉子は麦茶を飲んで、また上がっていった。
夕飯は誰も食べなかった。
九時半に、私は風呂の湯を見に行った。
袖が濡れないように、エプロンを外して、脱衣所の籠に入れた。湯は張れていた。蓋を半分ずらして手を入れると、ちょうどよかった。三年前のあの夜も、私はこうして湯に手を入れてから服を脱いだ。そう思ったのは、蓋を戻したあとだった。
振り向いたときには、籠の中のエプロンのポケットに、携帯は無かった。
階段を上がる足音がした。軽くて、速い足音だった。
「莉子」
廊下へ出た。莉子は階段の半分まで上がっていた。片手に私の携帯を持って、画面を親指で叩いていた。暗証番号は優斗の誕生日だ。莉子は知っている。
「返しなさい」
「消す」莉子は振り向かずに言った。「うちが言うたんや。直接言うてって。せやから」
私は階段を駆け上がった。手を伸ばすと、莉子の足首に届いた。莉子がよろけて、段に膝をついた。
ごつ、と音がした。
私は莉子の手首をつかんだ。細かった。こんなに細かったかと思った。握った指を、一本ずつはがした。莉子は泣きながら握っていた。爪が、私の手の甲に食いこんだ。
「晴美!」
達郎が居間から出てきた。私は携帯をもぎ取った。画面に「削除しますか」と出ていた。キャンセルを押した。
莉子は段に座りこんで、膝を押さえていた。
私は二人の横を抜けて廊下を走り、浴室に入って、鍵をかけた。
*
湯気がこもっていた。換気扇が回っていた。
浴槽の縁に腰を下ろした。手の甲から、血が一筋、手首のほうへ流れていた。
二十一時四十七分。
戸の外で、達郎が何か言っていた。莉子の泣く声がした。私は聞かなかった。画面の時刻だけを見ていた。
四十八分になった。
携帯が、手の中でひとりでに鳴った。着信の音ではなかった。スピーカーから、雨の音がした。
「あ、おれ」
優斗の声だった。
「今から帰る。雨すごいわ。なんか買うてくもんある?」
それから、ぷつりと切れる音。三年、毎晩聞いてきた。ここで終わる。
終わらなかった。もう一度、雨の音がした。
「あ、おれ。今から帰る」
私は画面に触れていない。再生の印が、勝手に最初へ戻っていた。
三回目。四回目。優斗は何度でも、帰ると言った。雨がすごいと言った。何か買っていくものはあるかと聞いた。私は答えなかった。湯気の中で携帯を握って、答えなかった。三年前と同じだった。
五十二分。
戸が叩かれた。
低いところを。
すりガラスの戸のいちばん下の、換気のための細い羽根が並んだところが、三回、鳴った。
湯気の向こうに、黒い丸いものがあった。すりガラスに押しつけられた、人の頭の形だった。後頭部だった。濡れた髪がガラスに貼りついて、筋になっていた。その下に、肩の線が見えた。脱衣所の床に這いつくばって、額を戸の下に当てている。
羽根のあいだから、水が入ってきた。
浴室の床のタイルの上を、細く、こちらへ流れてきた。湯ではなかった。冷たかった。油の膜が、換気扇の明かりの下で虹色に光った。雨の夜の道路の匂いがした。
私は足を上げた。浴槽の縁に踵を載せて、膝を抱えた。水は浴槽の下に溜まって、排水口へは流れていかなかった。
羽根のあいだから、黒い糸のようなものが垂れてきた。何本も。濡れた髪の先だった。羽根の隙間を一枚ずつ押し分けるように、こちらへ伸びてきた。
「お母さん、消して」莉子の声がした。「お願いやから、消して」
「開けえ。晴美、開けえ」
二人の声は、戸の外の、ずっと上のほうから聞こえた。立っている人の高さから。その下で、頭は動かなかった。二人には、あれが見えていないのだと思った。それとも、見えていて、そう言っているのか。
私は削除の表示を出した。
親指を、削除の上に置いた。
「今から帰る」と優斗が言った。
「会わせへん」
声に出していた。戸の下の頭に向かって。団地の四畳半で言ったのと、同じ声だった。
言いながら、私は親指を、削除の上から横へずらした。キャンセルを押した。
それから、音量のボタンを押した。戸の下の音が聞こえなくなるまで。一回、二回。指が止まらなかった。目盛りがいっぱいになるまで押した。
浴室じゅうに、雨の音が響いた。
「あ、おれ。今から帰る。雨すごいわ」
「会わせへん」と、私はもう一度言った。誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
戸の下の音がやんだ。
すりガラスの黒い丸が、消えていた。羽根のあいだの髪も、無くなっていた。床の冷たい水だけが、残っていた。
「なんか買うてくもんある?」
そして、携帯の中で、音がした。
こん、こん、こん。
低い、ゆっくりした、三回。
録音の中で、誰かが、どこかを叩いていた。さっきまで戸の下で聞いていたのと、同じ高さの、同じ重さの音だった。
私は携帯を耳に押し当てた。雨の音が続いた。切れる音の前の、一秒に足りない隙間。そこに、何かがいた。額が床に当たる、鈍い重さがあった。
それから、声がした。
ほとんど息だけの、小さな声だった。
「……ええよ」
優斗の声だった。
ぷつり、と切れた。
再生は、もう最初へ戻らなかった。
私は携帯を耳に当てたまま、浴室の濡れた床に座りこんだ。戸の外で、莉子が泣いていた。達郎は、もう何も言っていなかった。
*
朝、玄関の優斗のスニーカーは乾いていた。
上がり框にも、廊下にも、階段にも、跡は無かった。浴室の床の水も、引いていた。優斗の部屋の床も、寝台の掛け布団も、乾いていた。窓の外で蝉が鳴いていた。
莉子は台所で、膝に湿布を貼っていた。湿布の端から、青い痣がはみ出していた。
私はそれを見た。莉子も私を見た。私は何も言えなかった。ごめんも、いいよも、出てこなかった。莉子は湿布の上から膝を撫でて、二階へ上がっていった。
達郎は、浴室の戸の前の廊下で、壁にもたれて眠っていた。ソファのタオルケットが、足もとに落ちていた。
*
その夜、九時四十八分に、私は台所の椅子に座って、携帯を開いた。
「あ、おれ。今から帰る。雨すごいわ。なんか買うてくもんある?」
こん、こん、こん。
「……ええよ」
ぷつり。
三回の音は、優斗の声よりも、近かった。耳の奥に、それだけが残った。
あの子は、何にでもそう言った。ええよ、パン買う、と言った子だった。
私は、問いのところまで戻して、止めた。
「なんか買うてくもんある?」
そのあとの、一秒に足りない隙間。三年、そこは空いていた。今は、あの人の額の音で埋まっている。
「……牛乳」
声に出してから、それが、昨日の昼に莉子が冷蔵庫の前で言ったものだと気づいた。冷蔵庫の中に、牛乳はまだ無かった。
携帯の中で、優斗はもう何も言わなかった。
私はもう一度、最初から再生した。




