二
朝になると、タイルの跡は乾いていた。
乾いて、白く残っていた。膝の形の丸が二つと、額の形の小さな楕円が一つ。雨のあとの道路に残る、砂の混じった水の跡と同じ色だった。
達郎が出がけにそれを見て、靴を履いたまま立ち止まった。
「なんや、これ」
私は答えなかった。
莉子も見た。学校の鞄を肩にかけたまま、しゃがんで、指で触ろうとして、やめた。
ポーチの段の上の菓子折りに、蟻が列を作っていた。包み紙の角の、糊のところに集まっていた。
「お母さん、それ、どうすんの」
「ほっといて」
莉子は菓子折りをよけて、門を出ていった。
達郎は、まだ跡を見ていた。
「あの人のお母さん、来たんやろ」と達郎は言った。インターホンの記録を見たのだろう。「死んだんやってな」
「うん」
「許したったらええやんか」達郎は跡から目を上げずに言った。「もう死んだんやで。晴美」
私は鞄を持って、跡をまたいで、門を出た。
それから毎朝、タイルの跡を見た。拭かなかった。膝の丸は、朝ごとに少しずつ、ドアのほうへ寄っていた。十三日目の朝には、額の跡が、ドアの下の隙間に半分かかっていた。
*
叩く音が変わったのは、十四日目の夜だった。
九時五十二分。私は台所にいた。こん、こん、こん、と三回。
ドアの音ではなかった。
もっと近かった。木を叩く音だった。玄関の、上がり框の板を、内側から。
私は台所の入り口に立ったまま、廊下の先の玄関を見た。明かりは消してあった。磨りガラスの小窓から、門灯の光が少しだけ入っていた。何も見えなかった。
その夜、私は廊下の明かりをつけたまま寝た。
朝、玄関に下りると、優斗のスニーカーの向きが変わっていた。
爪先をドアではなく、家の奥に向けて、揃えてあった。脱いだばかりの靴を、上がってきた人が向きを直さずに置いたような向きだった。
濡れていた。白い布地が灰色に染みて、靴紐の先から、まだ水が垂れていた。
その前の、上がり框の板の縁に、額の跡があった。
私は洗面所からタオルを持ってきて、スニーカーを拭いた。中まで濡れていたので、新聞紙を丸めて詰めた。それから、爪先をドアのほうへ向けて、元のとおりに揃えた。
靴箱にはしまわなかった。
*
それからは、毎晩、廊下の明かりをつけたまま寝た。
九時五十二分には、どこにいても手が止まった。台所でも、風呂の前でも、二階でも。音は毎晩、玄関の上がり框のところで鳴った。三回。それより奥へは来なかった。来ないことを、毎晩、確かめていた。
七月に入って最初の夜、私は廊下の明かりを消した。
なぜ消したのか、うまく言えない。見ておかなければいけないと思った。
台所の椅子を廊下の入り口まで持っていって、座った。玄関まで、六メートルほどある。磨りガラスの小窓から入る門灯の光で、スニーカーの白さだけが、ぼんやり見えた。
五十二分になった。
スニーカーの手前に、何かがあった。
さっきまでは無かった。いつ来たのか分からなかった。床の上の、低い、丸いものだった。上がり框の板の上に置かれた、大きな石のように見えた。
石ではなかった。
背中だった。
人が、膝をついて、体を前に折って、額を床につけている。その背中の丸みだった。濡れていた。門灯の光が、濡れた布の上で鈍く光った。作業着のような、厚い布だった。肩の線があった。後頭部があった。髪が濡れて、首筋に貼りついていた。
顔は見えなかった。床についていた。
ごつ、と音がした。
背中が少し持ち上がって、また沈んだ。額が板を打つ音だった。
ごつ。
ごつ。
三回。
私は椅子の上で、動けなかった。息をするのを忘れていた。膝の上で握った手が、自分のものではないように冷たかった。
背中は、それきり動かなかった。
どのくらいそうしていたのか分からない。気がつくと、スニーカーの前には何も無くて、私は手探りで廊下の明かりのスイッチを押していた。上がり框の板に、濡れた額の跡が一つ、光っていた。
*
「俺、会うたことあるねん」
達郎がそう言ったのは、その三日後の夜だった。
居間のテーブルの上に、銀行の通帳が置いてあった。私の知らない通帳だった。
「示談の時や。向こうの弁護士の事務所で、書類に判子押す時に、本人が来とった」
達郎はソファに座って、膝の上で手を組んでいた。
「部屋に入ったら、床に膝ついて、頭下げとった。俺が座っても、判子押しても、ずっとそのままやった。弁護士が、もう結構ですから、言うても、顔上げへんかった」
達郎は通帳を指で押して、私のほうへ少しずらした。
「金はそこに入っとる。一円も使てへん」
私は通帳を見た。表紙に、達郎の名前があった。
「帰り際にな」と達郎は言った。「まだ頭下げとるから。俺、言うてもうたんや。ええよ、って」
居間の時計の秒針の音がした。
「お前には言われへんかった」
私は通帳を手に取って、開かずに、テーブルの上の達郎の側へ戻した。
「それで、あの人は、帰ったん」
「……帰った」
「ほな、なんでまだ来るん」
達郎は答えなかった。
その夜、九時五十二分に、達郎はソファから立って、玄関へ行った。私は台所から見ていた。達郎は廊下の明かりをつけて、上がり框の前に立って、床の額の跡を見下ろした。
「もうええ」と達郎は言った。「ええから。帰り」
その声のすぐ後ろで、ごつ、と鳴った。
上がり框ではなかった。もう一歩奥の、廊下の板だった。
達郎は振り向いた。何もいなかった。廊下の板の上に、濡れた丸い跡が二つと、小さな楕円の跡が一つ、光っていた。達郎の足のかかとから、ほんの三十センチのところだった。
*
その週の土曜日の夜、私は流しの下から、菓子の空き箱を出した。
三年ぶりに、蓋を取った。
白い封筒が三十四通、届いた順に立てて並んでいた。どれも封は閉じてあった。いちばん古い一通を抜いて、台所の鋏で封を切った。便箋が二枚、出てきた。
「片岡優斗様 ご遺族様」
一行目に、そう書いてあった。
その下に、申し訳ございませんでした、と書いてあった。弁護士が直したような、硬い文だった。最後に、野村拓海、と名前があった。
二通目を切った。
「優斗くん」
三通目も、四通目も、優斗くん、で始まっていた。
私は台所の床に座りこんで、一通ずつ封を切った。
〈優斗くん。今日は雨です。雨の日は、まだ運転席に座れません。〉
〈優斗くんの高校の前を通りました。吹奏楽部の音がしていました。トロンボーンを吹いていたと、裁判で聞きました。どの音がトロンボーンなのか、僕には分かりませんでした。〉
トロンボーンは、いちばん低いところで鳴っている音だ。後ろの列で、ほかの楽器の下を支えている。私はそれを、書いて送ってやりたいと思った。思ってから、便箋を床に置いた。手が震えていた。
〈倉庫で働いています。フォークリフトの免許を取れと言われましたが、断りました。もう、何も運転しません。〉
〈優斗くんは、今年、十八歳です。〉
天気のこと。仕事のこと。食べたもの。眠れなかったこと。どの手紙にも、終わりに、ごめんなさい、と書いてあった。
最初の一通のほかは、三十四通のどこにも、私は宛てられていなかった。一度だけ、〈お母さんにも、妹さんにも、申し訳なく思っています〉とあった。それだけだった。
封を切りながら、途中で気づいたことがある。何通かの封筒は、糊のつき方がおかしかった。一度開けて、もう一度貼ったように、封の縁が少し波打っていた。私はそれを、指でなぞった。それきり、考えなかった。
最後の一通は、命日の前の日の消印だった。
便箋は一枚で、三行しかなかった。
〈優斗くん。
明日、お家の前まで行きます。
それから、会いに行きます。〉
*
次の夜から、音は廊下を進んだ。
一晩に、板一枚か二枚ぶん。朝になると、廊下に跡が増えていた。私は毎朝、それを雑巾で拭いてから家を出た。拭いても、夜にはその先に、新しい跡がついた。
七月十二日の夜、九時五十二分、私は二階の、階段の上がり口に立っていた。
階段の下で、ごつ、と鳴った。
いちばん下の段だった。
ごつ。
二段目。
ごつ。
三段目。
私は数えた。数えなくても、どこまで来たか分かるのに、数えた。四。五。六。音は、一段ごとに、少しずつ大きくなった。いや、近くなった。
十二で、止まった。
階段は十三段ある。いちばん上の段は、私の足もとの、すぐ下だった。
明かりはついていた。階段には誰もいなかった。十二段目の板の上に、濡れた額の跡があった。
私は、そこから目を離せないまま、優斗の部屋の戸に背中をつけた。




