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エピローグ:鍵のない楽園で、永遠の微睡みを

エピローグ:鍵のない楽園で、永遠の微睡みを


深い安堵と、胸の奥をじりじりと灼くような倒錯した歓喜が、ジュリアンのなかに満ち満ちていた。もう、何も考えなくていいのだ。あの騒がしく、醜悪な外の世界で、失脚と破滅の恐怖に怯える必要はどこにもない。白い薔薇の香りが微風に溶けるこの静謐な空間だけが、今の彼のすべてだった。

「ジュリアン、少し冷えてきましたね。新しい上着を羽織りましょう」

鼓膜を優しく撫でる声に、ジュリアンは視線を巡らせた。そこにいたのは、かつて自分がこの手で支配し、閉じ込めていたはずの美青年、レイだ。

今日のレイは、上質なシルクで仕立てられた漆黒のジャケットを身に纏っている。それはかつてジュリアンが好んで着ていた色であり、今のジュリアンが着ている、飾り気のない純白の寝衣とは鮮やかな対比をなしていた。立場がそっくり入れ替わってしまったことを、その衣服の色彩さえもが残酷に、そして甘美に物語っている。

レイは細い指先で、ジュリアンの肩にそっと極上のカシミアのショールを掛けた。肌に触れる柔らかなぬくもりと、レイの体から漂う、どこか冷たい硝子細工のような香水の匂いが、ジュリアンの鼻腔を支配する。

「……ああ、ありがとう、レイ。お前は本当に、いつも優しいな」

ジュリアンは、掠れた声でそう応じた。かつてのような傲慢な響きは、その声のどこを探しても残っていない。ただ、絶対的な庇護者を見上げるような、従順で虚ろな響きだけがあった。

目の前の円卓には、豪奢な銀の器に盛られた食事が並んでいる。丁寧にローストされた鴨肉のベリーソース添え、焼き立ての白いパン、そして血のように濃厚な赤ワイン。すべては、レイの圧倒的な財力と権力によって、外界からこの離宮へと秘密裏に運ばれてきたものだ。

「さあ、冷めないうちに召し上がってください。私が、貴方の口まで運んで差し上げますから」

レイは美しい顔に微笑を浮かべ、銀のフォークで小さく切り分けた肉をジュリアンの唇へと運ぶ。ジュリアンは、拒むことなど微塵も考えず、差し出されたものを大人しく口に含んだ。甘酸っぱいソースの味と、肉の豊かな脂の旨味が舌の上に広がる。

「美味しいかい? ジュリアン」

「……ああ、とても美味しいよ。お前が選んでくれるものは、何でも……」

噛み締めながら、ジュリアンは己の胸を焦がす絶望の正体について考えていた。

ほんの少し前まで、この「硝子鳥の庭」の主は自分のはずだった。レイをこの美しい檻に閉じ込め、怯えさせ、自分の手からしか食事を与えられないように調教していると、そう信じて疑わなかったのだ。

だが、それはすべて、レイという巨大な捕食者が仕掛けた、あまりにも精緻な罠に過ぎなかった。レイは最初から、ジュリアンを破滅させるための切札を握り締めながら、可憐な被害者の振りをしていたのだ。ジュリアンが本家の不正で失脚し、すべてを失ってこの離宮に逃げ込んできたとき、レイはただ微笑んで、外されていた足枷の鍵を見せた。

「君をこの手で支配していたはずなのに……!」

あの時、ジュリアンが叫んだ絶望の声を、今でも鮮明に思い出すことができる。あの瞬間に味わった、足元が完全に崩れ去るような恐怖。それと同時に、脳髄を痺れさせたのは、どうしようもないほどの恍惚だった。自分が神だと思っていた場所で、実は最初から、手のひらの上で転がされる家畜に過ぎなかったという事実。その圧倒的な敗北感が、ジュリアンの歪んだ支配欲を、そのまま極上の服従へと反転させたのだ。

「ジュリアン、何を考えているのですか? 私以外のことを考えてはいけませんよ」

レイの冷たい指先が、ジュリアンの頬を優しく、しかし逃れられない強さで包み込んだ。その瞳の奥には、底知れぬ執着の深淵が揺らめいている。

「考えていたんだ。私は、お前を閉じ込めていたつもりで、実は最初から、お前が作った檻のなかに自ら進んで入っていたのだな、と」

「ふふ、気づくのが遅すぎましたね。でも、そんな間抜けな貴方も愛おしい。私はいつでもここから逃げ出せたけれど、貴方に監禁されてあげるのが、私の愛だったのです。今度は、貴方が私の愛に溺れる番ですよ」

レイの言葉は、至高の呪文のようにジュリアンの全身に染み渡っていく。

ふと、ジュリアンは部屋の入り口に目をやった。そこにある重厚な木製の扉は、今、わずかに隙間を開けて解き放たれている。鍵などかかっていない。最初から、一度もかかっていなかったのだ。ジュリアンがその気になれば、今すぐにでもその扉を押し開け、外の世界へと走り出すことができる。

しかし、外の世界に何があるというのだろう。地位も名誉も、財産もすべてを失った自分を待っているのは、冷酷な世間の目と、終わりのない没落の苦しみだけだ。

ジュリアンはゆっくりと立ち上がり、ふらつく足取りで扉へと歩み寄った。レイはそれを止めることもせず、ただ愉しげに、背後からその背中を見つめている。

ジュリアンは開いた扉の隙間から、外界の景色を覗き見た。そこには、どこまでも続く灰色の空と、現実という名の残酷な荒野が広がっているように見えた。ジュリアンは小さく身震いし、その光景から逃れるように、自らの手で静かに扉を閉めた。

パタン、と小さな、しかし決定的な音が室内に響く。

「……ああ、やっぱり、私にはもう、どこへ行く場所もないのだな」

「ええ、そうです。貴方の居場所は、私の腕の中だけです、ジュリアン」

扉の内側から、自らの手で鍵を下ろす。カチリ、という金属音が、ジュリアンの精神に永遠の終止符を打った。彼は自ら進んで、この美しい檻の囚人となることを選んだのだ。

振り返ると、レイが両腕を広げて待っていた。ジュリアンはその胸へと、吸い寄せられるように崩れ落ちる。

カシミアのショール越しに、レイの確かな鼓動が伝わってくる。レイはジュリアンの金の髪に指を絡め、何度も何度も、甘い愛の言葉を囁き続けた。

「もう二度と離しませんよ、私の可愛いジュリアン」

「ああ、レイ……お前の言う通りだ。私はここにいる。ずっと、ここにいるよ……」

外界から遮断された「硝子鳥の庭」で、時間は再び静かに止まり始める。自らが望んで檻に囚われた主は、底知れぬ絶望の果てに得た、甘やな狂気という名の楽園のなかで、ただ美しく、幸福に狂っていくのだった。



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