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外れ刻印の灰掃き、魔物の群れを刈るたび廃村が目を覚ます ~追放された少年は灰鐘を鳴らし、底なしの夜を今日で止める~  作者: 花守りつ


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016 蛾の雪

屋根のない聖堂の朝は、いつも灰の匂いから始まる。昨日までなかったものが一つ増えると、そのぶんだけ谷の奥も深く暗くなる。楽になったと思った瞬間、闇は別の入口を見つけてくるのだ。

 この日、俺たちの前にあった問題は白灰蛾だった。相手は白灰蛾。数は千に近い。一つずつなら刃で足りるが、群れになれば息も足場も奪ってくる。

 ここまでに得たものは、深井戸の水脈、灰鎖の胸当て、灰掃きの本当の意味、赤滓鉄と横薙ぎの呼吸。どれも小さな獲得だったが、小さな獲得が重なると村の動きが変わる。問題は、灰獣のほうもこちらの変化を嗅ぎつけることだった。

 小さな灯をつないだだけで、夜は一枚の布のように持ち上がった。その感覚は、胸の真ん中に残ってなかなか消えなかった。

 屋根のない聖堂で一番怖いのは、強い敵そのものではなく、昨日の勝ち方を今日も使えると決め込むことだった。灰の匂い、風の向き、足場の湿り、遠くで響く小さな音。そのどれか一つが変われば、同じ白灰蛾でもまるで別の戦いになる。だから俺は、刃を抜く前に必ず周りを見た。

 ガルドは金床の前で、片目だけを細めて俺を見た。「坊主、刃は強くなった。だが使い手が刃に追いつこうとして息を捨てている」

 「息を捨てる?」

 「急ぐなということだ。群れ相手に急げば、死ぬ順番だけ早くなる」

 ミナはその横で矢羽根をそろえ、アグは炉の熱を嫌って扉の外へ寝そべっていた。村はまだ小さいが、誰がどこにいるか分かるだけで、戦いの前の怖さは少し形を変える。

 最初に来たのは匂いだった。焦げた毛、濡れた鉄、古い土。次に音が来る。無数の爪が石を叩き、草を裂き、呼吸を一つのうねりにして押し寄せてくる。

 白灰蛾は、ただ突っ込んでくるだけではなかった。先に弱いところを探し、次に音でこちらを焦らせ、最後に数で押す。騎士団の教本には載っていない戦い方だが、この谷ではそれが普通だった。

 ガルドの作った刃は、灰を吸うたびわずかに重くなる。重くなるのに、振りは鈍らない。むしろ次の軌道を刃のほうから教えてくるようで、俺はその声に合わせて肩を抜いた。

 短剣を低く構え、先頭の白灰蛾を足元から払う。倒した一匹が灰へ崩れる前に、次の影が肩へ飛び込んできた。俺は半歩だけ沈み、背中ではなく腰で回る。刃の先が円を描き、三つの喉をまとめて裂いた。

 恐怖が腹に来る。だが、恐怖を否定しても足は速くならない。俺はそれを息と一緒に飲み込み、次の一歩を選んだ。逃げる一歩ではなく、群れの中心を割る一歩だ。

 千に近いという数は、口にすればただの言葉になる。けれど目の前で動くと、それは壁であり波であり、こちらの心を削る音になる。俺は数えすぎないことにした。一匹を倒し、次を倒し、倒れた灰が足元に道を作るのを待つ。

 ミナの矢が左の隙間を縫った。羽の音が一つ消え、俺の足場が開く。そこへアグが飛び込み、噛むのではなく群れの向きを変えた。正面から受ければ押し潰される数でも、横へ流せば刃が届く。

 白灰蛾は雪のように降った。羽粉を吸うと眠くなる。眠れば、蛾は口元から体内へ入ってくる。だから俺たちは、聖堂の屋根のない空へ灯籠を吊るした。

 子どもたちが油皿を運び、ミナが灰糸を張り、俺が蛾の濃い場所へ走る。灯が一つだと消される。だが百の小さな灯なら、蛾はどれを消せばよいか迷う。

 羽粉で視界が白くなる中、アグの吠え声だけが進む先を教えてくれた。俺はその声へ向かって刃を振るい、灰になった蛾を灯籠網へ流した。

 夜が明けるころ、聖堂の空には細い光の網が残っていた。屋根ではない。だが雨のように降る敵を受け止めるには、屋根より役に立つこともある。

 灯籠網をどう使うかで、村の一日は変わる。俺の体へ入れれば次の踏み込みが早くなり、油皿と灰糸へ入れれば戦いの幅が広がり、広場へ撒けば子どもでも走れる足場になる。どれを選んでも正解に見え、どれを選んでも何かが足りない。だから俺たちは、勝ったあとにも必ず話し合った。戦いのあとに残る沈黙を、相談の声で少しずつ埋めた。

 人の声が増え、村が村として形を持ち始めた時期だった。やるべきことは派手な勝利ではなく、避難順を決め、鍋を大きくし、門番を置き、倒れた者をどこへ運ぶかまで決めておくことだった。大きな力を得たように見える日でも、誰かが薪を濡らしたり、水袋を置き忘れたりすれば、夜には全部が危うくなる。守る人数が増えるほど、勝利の条件も複雑になる。だから俺たちは、獣の数だけでなく、靴紐の結び目や鍋の底の焦げまで気にするようになった。

 白灰蛾の動きには、谷の悪意だけでなく学習のようなものがあった。柵を避け、弓手を狙い、井戸や炉を先に壊そうとする。こちらが村として戦い始めると、敵も村の弱いところを噛むようになった。つまり戦場は、俺の前方だけではなく、台所や井戸端や名札の棚にまで広がっていた。

 ミナ、子どもたちの役割も、その日から少し変わった。誰かがただ守られる側にいると、群れはそこを噛みにくる。けれど、小さくても役割を持つと、人は恐怖で固まりにくくなる。矢を一本運ぶこと、灯籠を一つ吊るすこと。それだけで前線の形が変わる。

 戦いの合間、俺はよく鐘楼の影で手を開いた。左手の刻印には、細かな灰が爪の間まで入り込む。洗っても完全には落ちない。昔なら、それが嫌だった。外れと呼ばれた印に、さらに灰が染みつくのが惨めだった。今は違う。この灰で灯籠網が生まれ、誰かが水を飲み、誰かが夜を越す。汚れではなく、通ってきた道の色だと思えるようになった。

 灯籠網を手にした喜びは、長くは続かない。すぐに、誰が管理するのか、どこへ置くのか、壊れたときどう直すのかという話になる。最初は面倒だと思った。けれど、面倒な相談ができる場所は生きている。死んだ村には、誰が鍵を持つかで言い合う声などない。

 夜の前には、必ず一度だけ広場が静かになる。鍋の湯気が細く上がり、灯籠の火が揺れ、子どもたちが眠る場所を取り合う。そこへ遠くの唸りが混じると、全員の手が止まる。恐怖が消えたわけではない。それでも、手はまた動き出す。カナンはそうやって、毎晩少しずつ廃村ではなくなっていった。

 怖さは減らない。ただ、怖いと口にしても隣の誰かが手を止めなくなった。俺はその空気を、何よりも大事にした。強い刃は折れることがある。高い柵も破られる。けれど、誰かが倒れたときに別の誰かが手を伸ばす習慣は、簡単には壊れない。灰鐘が本当に育てていたのは、俺の腕でも村の壁でもなく、その習慣だったのかもしれない。

 だから俺は、白灰蛾を前にしても、最初のころのようにただ生き延びることだけを考えなくなった。生き延びたあと、何を残すか。誰が次に使える形へ変えるか。どの獲得を、どの弱い場所へ渡すか。そんなことを考えながら刃を握るようになったとき、外れ刻印という言葉は、少しずつ遠い場所の悪口になっていった。

 準備の終わりには、必ず小さな確認をした。水袋の数、矢の束、逃げる子どもの順番、けが人を寝かせる戸板、油皿と灰糸の置き場所。強くなるほど、こういう確認は増えていく。面倒だと思う暇はない。面倒を省いた場所から、群れは入り込む。カナンで得た力は、確認する手間を減らすものではなく、確認できる範囲を広げるものだった。

 力は、使った瞬間よりも使った後に正体を見せる。誰かを怯えさせる力なのか、誰かの仕事を楽にする力なのか、誰かがもう一度眠れる場所を作る力なのか。灯籠網を手にしたあと、俺たちは必ずその正体を確かめた。確かめずに進めば、灰鐘の音は少しずつ濁るからだ。

 戦いが終わると、地面に残った灰は風に散らず、俺の刻印へ細い糸のように寄ってきた。熱いわけではない。ただ、胸の奥で小さな鐘が鳴る。その音が鳴ったぶんだけ、俺たちは何かを一つ取り戻せる。

 灯籠網は、俺一人を強くするだけでは終わらなかった。水に混ぜれば井戸が澄み、炉に入れれば火が安定し、道に撒けば小さな足でも逃げ遅れない土になる。灰掃きの刻印は、力を独り占めする刻印ではなかった。

 今回の獲得は灯籠網だった。言葉にすると一つだが、その一つは何通りにも使える。油皿と灰糸と結びつければ戦いの手になり、人の手と結びつければ暮らしの支えになる。

 本来なら、力を得れば危険は減るはずだ。けれど、この谷では逆だった。こちらが一つできるようになると、灰獣は二つ先の形で現れる。だから成長は終点ではなく、次の困難へ進むための足場だった。

 誰か一人が強くなれば済む話ではなかった。前へ出る者、遠くを見る者、火を守る者、名を残す者、子どもの手を引く者。その役割が噛み合って初めて、村は一本の剣より折れにくくなる。強さは腕だけでなく、絡み合う手の数でも決まるのだ。

 戦いが終わると、村人たちはすぐに動き始めた。倒れた者を運び、破れた布を縫い、拾える灰を清め、使える骨をより分ける。勝ったという言葉を口にする前に、次の夜へ備える。それがカナンの一日だった。

 ミナは俺の肩の傷に布を巻きながら、「無茶をするな」と言った。俺が返事をする前に、ガルドが「無茶をしない戦場などない」とぼやいた。少しだけ笑いが起きた。

 蛾の羽が降り終わると、鐘楼の影に人影が立っていた。俺はその音を聞きながら、短剣についた灰を指で拭った。終わった戦いの灰は軽い。だが、次に来るものの影は、いつもその下に沈んでいる。

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