第九十四話:茶室にて
召しがあったのは、冬の初めだった。
「――茶室へ、とのことにございます。」
高峻がそう告げた時、景辰の眉が、わずかに動いた。
朝堂でも、書房でもない。茶室。
あの部屋に呼ばれた者が、何を問われるか。この宮で育った者なら、誰でも知っている。
炭が、静かに爆ぜた。
釜の湯が、細く鳴っている。玄淵は、自ら茶を点てていた。
皇帝の手が、黙々と茶筅を回す。
景辰は、その正面で、膝を揃えて待っていた。
「――飲め。」
差し出された碗を、両手で受ける。
苦かった。濃い。この人の茶は、昔から濃すぎる。
「……相変わらずでございますね。」
「薄い茶を飲みたければ、母のところへ行くことだな。」
それきり、しばらく、沈黙が続いた。
炭の音。湯の音。
「少し前のことだ。景明が、来た。」
やがて、玄淵が言った。
「次の御代は望まぬと。……そして、お前を推すと申しておった。」
「……伺っております。」
「あれが、何かを手放すのを見たのは、初めてよ。」
玄淵は、自分の碗に湯を注いだ。
「三つの頃から、あれは何も捨てん子であった。取り上げられても、泣かん。黙って、次に取られぬ方法を考える。……その子が、自分から手放した。」
「……はい。」
「理由を訊いたが、言わなんだ。……お前は、知っておるか?」
景辰は、答えられなかった。
知っている。けれど、それは兄の口から言われるべきことだ。
「――まあ、言わずともよい。」
玄淵は、あっさりと引いた。
「朕も、大方は察しておる。」
茶碗が、静かに置かれた。
「さて。……景辰。」
空気が、変わった。
「朕の座が、欲しいか?」
来た、と思った。
この問いを、いつか投げられることは分かっていた。
兄が退いた日から、あるいはもっと前から。
「……恐れながら。」
景辰は、目を伏せた。
「望んでおりませぬ。」
「ほう。」
「私には、景明兄上のような才はございません。景恒兄上のような年長の徳も、景琮のような家格もございません。……私は、ただ、自分の宮のことで手一杯の男にございます。」
「正直よな。」
「事実にございます。」
「――では、断るか?」
「……」
「景明の推挙も、家々の上奏も、全て断って、このまま第三皇子として生きるか。……それも道よ。悪い道ではない。」
景辰は、答えなかった。
答えられなかった、という方が正しい。
「……ふむ。」
玄淵は、脇息に頬杖をついた。
「ならば、一つ訊こう。」
低い声だった。
「――お前は、あの娘を、何にしてやりたい?」
景辰の指が、動いた。
「……雨鈴の、ことでございますか?」
「他に誰がおる_」
炭が、ぱち、と爆ぜた。
「三家の上奏に、お前はこう答えたな。正妃は必ず迎える。然るべき時が来れば、自らの手で選び、迎える、と。」
「……はい。」
「では、その『然るべき時』とは、いつのことか。朕に申してみよ。」
景辰は、口を開いた。
開いて、そのまま、止まった。
――いつだ。
自分で書いた文だった。
誰も文句を言えなくなった時。
あの娘自身の名で、誰も異を唱えられなくなった時。
では、それは、いつ来る。
市井から来た娘が、李の家名を得た。昊国の王女を救い、陛下に名を呼ばれた。……それでもまだ、後宮は彼女の席次を数え、家々は自分の娘を推してくる。
この一年で、あの娘は十分すぎるほどのことをした。
それでも、足りない。
では、あと何をすれば足りる。
――違う。
景辰の背が、冷たくなった。
あの娘が何をしようと、足りることはない。生まれを、家格を、順序を持ち出す者は、いつまでも持ち出す。ならば「誰も文句を言えなくなる時」など、待っていても永遠に来ない。
来ないものを、俺はあの娘に約束した。
「……陛下。」
声が、掠れた。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「申してみよ。」
「――陛下は、なぜ、母上を妃に据えられたのですか?」
玄淵の眉が、わずかに上がった。
「母上の生家は、上の家ではございません。景琮の母君のような家格もない。……それでも、母上は後宮の内を差配しておられます。」
「そうよな。」
「誰も、それに異を唱えませぬ。なぜです?」
玄淵は、しばらく景辰を見ていた。
それから、言った。
「――朕が、決めたからよ。」
短い言葉だった。
「朕が据え、朕が退けず、朕が長年、動かさなんだ。……それだけのことよ。」
景辰は、動けなかった。
「誰も文句を言わぬのではない。言えぬのだ。……言えば、朕に楯突くことになるゆえ。」
炭が、静かに崩れた。
「景辰。誰も文句を言えぬ日など、待っても来ぬ。」
玄淵の目が、まっすぐにこちらを向いた。
「作るのよ。……その日を作れる者が、この国に一人だけおる。」
部屋の中が、ひどく静かだった。
景辰は、自分の手を見ていた。
作る。
その言葉が、思いもよらぬ場所へ火を移した。
――豊陽。
あの、埃っぽい町の処刑場。無実の男が、縄を打たれて跪いていた。誰も助けられなかった。訴える先がなかったからだ。調べる者がおらず、聞く者がおらず、ただ順序と体裁だけで人が死ぬところだった。
あの時、自分が動けたのは、皇子だったからだ。
皇子でなければ、あの男は死んでいた。
――では、豊陽の外は?
この国に、町がいくつある。裏通りが、いくつある。占い屋の暖簾をくぐって、明日を案じて銭を払う者が、どれだけいる。
そのうちの何人が、誰にも聞いてもらえずに死んでいく。
一人ずつ、自分の足で駆けつけて助ける。この一年、そうやってきた。豊陽でも、後宮でも、昊でも。
だが、それで救えるのは、目の前の一人だけだ。
「……陛下。」
声が、掠れた。
「先ほど、望んでおらぬと申し上げました。……訂正いたします。」
「ほう。」
「玉座そのものを欲しいとは、今も思いませぬ。……ですが、欲しいものがございます。」
景辰は、顔を上げた。
背筋が、伸びていた。
「訴える先のない者に、訴える先を作りとうございます。」
炭が、静かに爆ぜた。
「豊陽で、私は一人助けました。あの一人を助けるために、皇子の名を使いました。……ですが、この国には、豊陽が幾つもございます。私の足では、到底回りきれませぬ。」
「……ふむ。」
「順序と体裁で人が死ぬ仕組みを、変えとうございます。……それは、一人ずつ駆けつけて、できることではございません。」
玄淵は、何も言わなかった。
ただ、その目が、わずかに細くなった。
「ならば、座が要ります。……そのために、参ります。」
言い切った。
「――よい心がけよ。」
玄淵は、静かに言った。
「だが景辰。志だけで国は治まらぬ。……お前の目は、どこまで届く?」
「……と、申しますと?」
「朕は、この座から国を見てきた。見てきたつもりであった」
皇帝の指が、脇息を一度、叩いた。
「――だが、朕は、東の裏通りに、よく当たる占い屋があることを知らなんだ。報せが上がって初めて知った。……朕の目は、そこまで届かなかったのだ。」
景辰の喉が、鳴った。
「玉座は高い。高すぎて、下が見えぬ。……お前が座っても、同じよ。」
――同じ。
景辰の頭に、一つの光景が浮かんだ。
昊国の広間。何百という人の中で、ただ一人、末席の柱の陰から広間中を見ていた娘。
誰が誰に目配せをしたか、誰が席を立ったか、全部数えていた目。
木戸番の帳面。都の市の閉まる刻。裏通りの子でなければ、決して思いつかない道筋。
朝堂の誰にも見えなかったものが、あの娘には見えた。
――いた。
玉座から見えぬ場所を、見られる者が。
「……陛下。」
声が、変わった。
「私の目は、届きませぬ。……ですが、届く者を知っております。」
「ほう。」
「市の値の動きを知り、木戸の帳面を知り、誰が軽んじられているかを、部屋に入った瞬間に見抜く者にございます。……あれがいなければ、豊陽の男も、昊の王女も、助かっておりませぬ。」
「……」
「その者を、隣に据えとうございます。」
景辰は、はっきりと言った。
「守るためではございません。飾るためでもございません。……国を、二人で見るためにございます。」
炭が、爆ぜた。
「私が上から見て、あれが下から見る。それで、ようやく届かぬところが減ります。……正妃の座とは、そういう席であるべきだと存じます。」
玄淵は、しばらく何も言わなかった。
それから、ふ、と息を吐いた。
「……道具にする、と聞こえるぞ。」
「聞こえてしまいますね。」
景辰は、目を逸らさなかった。
「ですが陛下。あれは、道具にされることを恐れる娘ではございませぬ。……使い道がないことを、恐れる娘にございます。」
玄淵の口の端が、ゆっくりと上がった。
「――ふ。」
喉の奥で、低く笑った。
「よう見ておるのだな。……あの娘のことを。」
「恐れ入ります。」
「よい。座を争うがよい。」
茶碗が、静かに置かれた。
「ただし、景辰。朕は、お前に何も与えぬ。兄の推挙も、家の上奏も、勝手に集まったものよ。……座は、朕がくれてやるものではない。」
「承知しております。」
「獲れ。……獲れたなら、その時は朕も、朕のやり方を教えてやろう。」
「――はい。」
景辰は、深く頭を下げた。
茶室を出ると、冬の風が吹いていた。
廊下を歩きながら、景辰は考えていた。
今夜、あれに何と言うか。
玉座を獲ると言うのか。そして、正妃になってくれと。
……あの娘は、きっと驚く。そして、たぶん笑う。私なんかに務まるわけない、と。
それでも、言わねばならない。
守るための座ではなく、共に見るための座だと。
あの夜の約束を、俺は書き換えねばならないのだから。
待つのではなく、獲りに行くと。
茶室では、玄淵が一人、冷めた茶を眺めていた。
「……兄は手放し、弟は獲りに行くか。」
あの女の産んだ、たった一人の娘を、それぞれのやり方で。
玄淵は、冷めた茶を、一口含んだ。
苦かった。
まだ皇子であった頃。
この同じ部屋で、朕も同じことを言うた気がする。
届かぬところまで見える国にしたい、と。
そして、届かなんだ。裏通りの占い屋のことすら、知らずにいた。
「……せいぜい、やってみるがよい。」
呟きは、誰にも聞かれなかった。
それは、突き放す声ではなかった。




