第九十三話:奥の宮
その願いを口にしたのは、雨鈴の方からだった。
「……お母様に、会わせていただけませんか?」
第二皇子の宮の東屋で、景明の手が止まった。
「――何を言い出す。」
「だめですか?」
「だめだ。」
即答だった。いつもの飄々とした調子は、どこにもなかった。
「母は、人に会える状態ではない。……知っているだろう。」
「はい。」
「ならば、なぜ言う?」
雨鈴は、膝の上で手を重ねた。
「私の母が、あの日、志遠さんを庇ったのは。……お母様のところへ帰すためだったと思うんです。」
景明の目が、揺れた。
「私の母は、お母様に会ったことはなかったと思います。でも、六つの子が、母上の部屋の前で物を投げる音を聞いて、家を飛び出してきた。……そういう子だって、知っていたはずです。」
「……」
「帰る家がある子だって、知ってて、逃がしたんです。」
庭の木が、風に鳴った。
「だから、一度でいいんです。……会って、お伝えしたいんです。あの日のこと。」
景明は、長いこと黙っていた。
やがて、掠れた声で言った。
「……無駄だ。母は、俺のことも分からん。」
「はい。」
「十五年だ。月に二度、欠かさず通った。……一度もない。母が、俺を息子だと呼んだことは。」
声が、低くなった。
「顔を見せれば悲鳴を上げる。物を投げる。手が付けられなくなって、女官に取り押さえられる。……そういう場所だ。」
「はい。」
「見て、後悔するぞ。」
「しません。」
雨鈴は、まっすぐに言った。
「気味が悪いって言われるのには、慣れてますから。」
景明が、顔を上げた。
その目に浮かんだものが何だったのか、雨鈴には分からなかった。
奥の宮は、陛下の後宮のいちばん奥、妃嬪方の宮が並ぶ一角を抜けた、さらにその先にあった
門は固く閉ざされ、番の者が二人。
庭は手入れされているのに、人の気配がまるでない。
豪奢な造りの建物が、まるで大きな箱のように、そこに据えられていた。
――ご寵愛が深すぎて、奥にお隠しになっているのだ。
後宮の誰もが、そう言う場所。
番の者たちは、景明の顔を見ると、何も言わずに門を開けた。訊きもしなかった。
この人が来ることが、当たり前になっている者の動きだった。
「……本当に、来るのだな?」
門をくぐりながら、景明はもう一度そう言った。
「はい。」
「……何があっても、俺の後ろにいろ。」
布は、巻いていなかった。
素顔のまま、この人は母の宮へ入る。
中は、暗かった。
昼だというのに、どの窓にも厚い帷が掛かっている。
灯りは一つきり。空気が、少しだけ冷たい。
景明は、迷わずに歩いた。どの板が鳴るかまで知っている足取りだった。
途中、控えていた老いた女官が深く礼をする。
「……今日は、どうだ?」
「朝から、お静かにございます。」
「そうか。」
短いやり取りだった。何百回も繰り返されてきた問いと答えの形をしていた。
「母上。」
奥の間の前で、景明が声をかけた。
返事はなかった。
「――入ります。」
戸が、静かに開かれた。
その人は、窓辺に座っていた。
痩せた背中。艶を失った髪。
それでも、一目で分かった。
美しい人だった。
秋霞が言っていた通り、かつては、それはもう美しかったのだろう。
今はただ、骨の上に皮膚が張っているだけのような姿だったが、その顔の輪郭だけが、まだ昔の形を残していた。
そして、景明に、よく似ていた。
「母上。……景明です。」
返事は、なかった。
その人は、帷の隙間をじっと見つめている。
何を見ているのか、そこには何もない。
「今日は、客を連れて参りました。」
雨鈴は、一歩、前へ出た。
「……初めまして。蘇雨鈴と申します。」
声は、震えなかった。
「いえ、今は、李、雨鈴です。……第三皇子殿下の、側室にございます。」
返事は、なかった。
その人は、微動だにしなかった。
「――やめろ。」
景明が、低く言った。
「もう、いい。分かっただろう。……出るぞ。」
「もう少しだけ。」
雨鈴は、もう一歩、近づいた。
そして、膝をついた。その人の、視線の高さに。
「……私の母は、この宮で、占い師をしておりました。」
その瞬間だった。
痩せた背中が、びくり、と動いた。
「――!」
景明が、息を呑んだ。
ゆっくりと、その人の首が回った。
虚ろな目が、初めて、こちらを向いた。
「……あ。」
掠れた、細い声だった。
「あ、あ……」
痩せた手が、震えながら持ち上がる。その指先が、雨鈴の頬に触れた。
冷たい手だった。
「――ああ。」
その人の目から、ぼろぼろと、涙が落ちた。
「……あなた。……あなた。」
「はい。」
「あなた、来てくださったのね。……ずっと、ずっと、お待ちしておりました。」
雨鈴は、動かなかった。
違う、とは言わなかった。私は娘です、とも言わなかった。
この人が誰を見ているのか、この人の中では今、何年前なのか。それを正すことに、何の意味もない。
「……お待たせして、すみません。」
そう言った。
「遅くなりました。」
「いいえ。いいえ。……いらしてくださっただけで。」
その人は、雨鈴の頬を、何度も撫でた。
「あのね。あのね、聞いてくださる?……あの子が、いなくなってしまったの。」
景明の身体が、凍りついた。
「毎日、毎日、探しているの。どこにもいないの。……あの子は、どこへ行ってしまったのかしら。」
「……お母様」
「あなた、占いができるでしょう?……ねえ、視てくださらない?あの子が、無事かどうか。」
雨鈴は、そっと、その手を握った。
振り返って、戸口の方を見た。
立ち尽くしたまま、動けずにいる男を。
「――視えました。」
雨鈴は、はっきりと言った。
「ご無事です。」
その人の手が、震えた。
「本当に?」
「はい。……ちゃんと、大きくなっておられます。背が高くて、口が悪くて、人を食ったような顔をして。」
「……まあ。」
「たくさんの人に慕われています。お身体も丈夫です。医者の言うことは、あまり聞きませんけれど。」
その人が、笑った。
皺の寄った頬が、くしゃりと動いて。
「……そう。そう、なの。」
「はい。」
「よかった。……よかった。」
何度も、そう繰り返した。
「あの子は、無事なのね。……よかった。」
そして、ふと、戸口の方へ顔を向けた。
「……あら」
虚ろな目が、そこに立つ男を捉えた。
「どなた?」
景明は、答えられなかった。
雨鈴が、代わりに言った。
「……お世話になっている方です。」
「まあ、そう。……ご親切に、ありがとうございます。」
その人は、丁寧に頭を下げた。
「あの子も、いつか、そんなふうに大きくなるのかしら。」
「……なりますよ。」
雨鈴は、そう答えた。
「きっと、そっくりになります。」
宮を出て、門をくぐって、しばらく。
景明は、一言も喋らなかった。
蓮池のほとりで、ようやく足を止めた。
「……なぜ」
声が、掠れていた。
「なぜ、あんなことを言った?」
「本当のことですから。」
「――母が待っているのは、六つの俺だ。」
男は、蓮池を見たまま言った。
「あの日、二の宮を抜け出した子だ。……十五年通って、母は一度も、俺をその子だと思わなかった。目の前にいても、どなた、だ。」
声が、低くなった。
「母の探しているあの子は、もう、どこにもおらん。……無事だなどと、言えるものか。」
「いますよ。」
雨鈴は、まっすぐに言った。
「そこに。……大きくなっただけです。」
景明が、こちらを見た。
「お母様が知りたかったのは、あの子が無事かどうか、でしょう。怪我をしていないか。生きているか。……それだけです。」
「……」
「だから、無事です。生きてるじゃないですか。」
景明の肩が、震えた。
「あの日、私の母が逃がした子は、ちゃんと生きて、大きくなって、そこに立ってます。……お母様に分かってもらえなくても、それは本当です。それ以外に、何が要るんですか。」
風が、蓮池を渡った。
男は、顔を覆わなかった。
ただ、その場に、立っていた。声も上げずに。ずいぶん長いこと。
やがて、掠れた声で、一言だけ。
「……また、ついてきてくれるか?」
「はい。」
雨鈴は、頷いた。
「何度でも。」




