第九十二話:空いた座
麗妃の言った通りになるまで、十日もかからなかった。
始まりは、贈り物だった。
「……雨鈴様。またでございます。」
翠華が、卓の上に箱を置いた。
今朝で、四つ目。絹。硯。香。そして、見たこともない南方の菓子。
「今度は、どちらから?」
「兵部侍郎、周家より。……先日は、その奥方様から文が参りました。ご機嫌伺いの体裁ですが。」
「中身は?」
「一度、お茶をご一緒に、と。」
雨鈴は、天井を仰いだ。
一年前、この宮に来たばかりの頃は、誰も彼女に文など寄越さなかった。
市井から連れてこられた娘。名もなく、家もなく、末席の客人。
それが今は、朝から晩まで箱が届く。
「……全部、返せる?」
「返せば、角が立ちます。」
翠華の声は、静かだった。
「受け取れば、借りになります。……どちらにしても、後宮は、雨鈴様を数え始めております。」
数えているのは、家々だけではなかった。
請安の席が、変わった。
これまで雨鈴の席は、末席のさらに端だった。
誰も話しかけず、誰も目を合わせなかった。
それが今は、入っていくと、妃嬪の方々が扇の陰でこちらを見る。会釈が返ってくる。
時には、上座の方から声がかかる。
「まあ、雨鈴さん。李の尚書様は、お変わりなく?」
「はい。お陰様で。」
「あの方は、陛下の御信任も篤くていらっしゃるものね。……ねえ、雨鈴さん。あなた、そのお席では、さぞ窮屈でしょう?」
笑顔だった。悪意など、どこにもない笑顔だった。
「……いいえ。慣れておりますので。」
「あら、ご謙遜。」
席を離れると、背中で囁きが起きる。
――李の娘だそうよ。
――では、正妃の座も。
――でも、第三皇子殿下は、まだ何も仰っていないのでしょう?
――そこよ。そこが、面白いところなの。
雨鈴は、まっすぐ前を向いて歩いた。
面白い。そうだろう、と思った。
この後宮の人たちにとって、これは、そういう話なのだ。
「――正妃の座について、上奏がございました。」
高峻がそう報せたのは、その月の半ばだった。
「三件です。いずれも、第三皇子殿下は次の御代の有力な御方であるゆえ、宮の内を早く整えるべきである、と。」
「……誰からだ?」
「兵部の周家。工部の黄家。それと、礼部の……李家からも。」
雨鈴が、顔を上げた。
「え、お父さんが?」
「いいえ。李瑯様ご本人ではございません。ご一門の、傍系の方々です。」
高峻は、言いにくそうに続けた。
「……李家に、突然、皇子の側室が生まれた。しかも次の御代に近い御方の。一門には、そこに乗りたい者が、当然おります。」
雨鈴は、口を閉じた。
自分の意志と関係なく、自分を担ぐ人が出てくる。
麗妃が言った通りだった。
「上奏の中身は、三つとも同じです。――第三皇子は、正妃を迎えるべきである。」
「……誰を?」
「そこが、面白いところでして。」
高峻の目が、鋭くなった。
「周家と黄家は、それぞれ自分の家の娘を推しております。李家の一門は、雨鈴様を。……つまり、三家が争っているのです。雨鈴様を担ぐ側と、雨鈴様を押しのける側で。」
部屋が、静かになった。
景辰は、卓の上で指を組んだまま、しばらく黙っていた。
「……いずれも、断れんな。」
「はい。上奏に対し、返答をせぬままでは、いずれ陛下のお耳に。」
「返答は、二つに一つだ。誰かを娶るか、当面は娶らぬと表明するか。」
「……さようです。」
雨鈴は、卓の下で、手を握りしめていた。
その夜。
二人は、いつものように、卓を挟んで座っていた。
茶が二つ。灯りが一つ。
けれど、どちらも、なかなか口を開かなかった。
「……ねえ、景辰。」
先に切り出したのは、雨鈴だった。
「上奏のこと、どうするの?」
「……考えている。」
「私は、今のままでいいからね。」
「雨鈴。」
「本当よ。だって、私が正妃になったら、周家も黄家も面目が潰れるでしょう。李の一門は喜ぶけど、その分、他の家が敵になる。……あなたが、やりにくくなる。」
雨鈴は、早口で続けた。
「それに、私が席次を望んだら、あの人たちの言う通りになっちゃう。『李の娘になった途端、座を狙い始めた』って。……そんなの、悔しいもの。」
言い終えて、茶を一口飲んだ。
自分でも、よくできた理屈だと思った。全部、本当のことだ。嘘は一つもない。
――一つも、ないはずだった。
「……終わりか?」
「え?」
「言いたいことは、それで全部か?」
景辰の目が、まっすぐにこちらを向いていた。
逃げ場のない目だった。この人はこの目で人を追い詰めてきた。
「……全部よ。」
「嘘だな。」
「嘘じゃない。」
「お前は、嘘が下手だ。」
――ずるい。
雨鈴は、茶碗を置いた。置いた手が、震えていた。
「……ずるいよ、景辰。」
「何がだ。」
「そういう訊き方。……私、言わないようにしてるのに。」
「なぜ、言わん?」
「言ったら…」
声が、掠れた。
「言ったら、あなたが、困るでしょう?」
部屋が、静かになった。
灯芯が、ぱち、と鳴った。
「……あのね。」
雨鈴は、俯いたまま言った。
「私、側室でいいの。本当にいいの。でも」
膝の上で、指が絡まる。
「あなたの隣に、他の人が立つのは、嫌。」
言ってしまった。
誰にも言わずにきたことを。
「……ごめんなさい。今の、忘れて。上奏とは関係ないから。あなたが誰を娶っても、私は――」
「雨鈴。」
「な、なに?」
「顔を上げろ。」
上げられなかった。
だから景辰は、立ち上がって、卓を回った。
そして、雨鈴の前に膝をついた。
「――聞け。」
低い声だった。
「俺は、お前以外誰も娶らん。」
雨鈴の息が、止まった。
「周家も、黄家も、どこの家も断る。……兄上が、そのための口実をくださった。使わせてもらう。」
「でも、それじゃ」
「正妃の座も、しばらく空けたままにする。」
「……え?」
景辰は、そこで、少しだけ言葉に詰まった。
この人が言い淀むところを、雨鈴は、数えるほどしか見たことがない。
「……いずれは埋める。だが、今ではない。」
「なんで?」
「今、お前をその座に据えれば、こう言われる。李の娘になった途端、座を得た、と。……お前が、いちばん嫌がることだ。」
雨鈴の目の奥が、熱くなった。
さっき自分が並べた理屈を、この人は、そのまま返してきた。
「だから、待つ。」
景辰は、そう言った。
「家名でも、上奏でもなく。――お前自身の名で、誰も文句を言えなくなった時に、迎える。」
「それ…」
「なんだ?」
「それ、すごく、時間かかるんじゃない?」
「かかるだろうな。」
あっさりと、認めた。
「それまで、お前は側室だ。窮屈で、面倒で、贈り物の山に埋もれる。」
「……うん。」
「だが、その間、俺の隣に他の誰も立たん。……それで、足りるか?」
雨鈴は、答えられなかった。
答えられずに、両手で顔を覆った。
足りる。足りすぎる。
「……足りるに、決まってるでしょ。」
声が、ぐしゃぐしゃになった。
景辰の手が、頭に置かれる。いつもの、不器用な手つきで。
「泣くな。」
「泣いてない。」
「泣いている。」
「……うるさい。」
その夜、上奏への返答が、書かれた。
翌朝、それは三家へ届けられ、そして写しが朝堂に回った。
――御諫言、ありがたく拝受した。
――正妃は、必ず迎える。然るべき時が来れば、自らの手で選び、迎える。
――それまで、座は空けておく。
短い文だった。
けれど、読んだ者は皆、同じことを考えた。
――然るべき時、とは、いつだ。
――そして、その時に迎えられるのは、誰だ。
名は、一つも書かれていなかった。
書かれていないことが、何よりはっきりと、その名を指していた。




