第九十一話:返事
秋が深まる頃、李瑯から二度目の文が届いた。
急かす言葉は、一つもなかった。
ただ、庭の木が色づいたこと、今年の茶がよく出来たこと、そして――あの人も、この季節が好きだったこと。
それだけが、短く書かれていた。
雨鈴は、その文を、何度も読み返した。
「……決めたの。」
その夜、牀の縁に並んで座りながら、雨鈴はそう切り出した。
「李の家に、届けてもらおうと思う。」
景辰は、すぐには答えなかった。
「……いいのか?」
「うん。」
「李の娘になれば、お前は、ただの側室ではなくなる。……朝廷が、お前を見る。家が、お前を使いたがる。今までの静けさは、二度と戻らんぞ。」
「分かってる。」
雨鈴は、膝の上の櫛を撫でた。黒檀の、歯の不揃いな櫛。
「でもね、景辰。私、ずっと、誰の子でもなかったの。」
「……ああ。」
「白楊村では、不幸を呼ぶ子だった。裏通りでは、占い屋の雨鈴だった。ここでは、市井から来た側室。……どれも、私だけど。誰の子か、っていうのは、一度もなかった。」
声が、少しだけ揺れた。
「お母さんは、私を産んでくれた。お父さんは、長い年、気にかけてくれた。……それを、なかったことにしたくない。」
景辰は、しばらく黙っていた。
それから、手を伸ばして、雨鈴の頭に置いた。
「――そうか。」
「反対、しないの?」
「する理由がない。」
「面倒なこと、増えるよ?」
「増えるな。」
あっさりと認めてから、景辰は言った。
「だが、それは俺が引き受ける分だ。お前が、誰の子でもなかった年月を、俺は代われん。……それだけは、お前のものだ。」
雨鈴は、俯いた。
この人は、時々、ずるい。
その前に、行かねばならない場所があった。
沈家の門をくぐるのは、久しぶりだった。
「まあ、雨鈴!痩せたんじゃないの?」
明珠と明琳に迎えられて、雨鈴はしばらく喋れなかった。
手を握られ、頬を挟まれ、明琳に至っては、いきなり泣き出した。
話を切り出したのは、茶が二杯目になってからだった。
「……あの。実は、お話があって。」
雨鈴は、全部話した。
母のこと。父のこと。李家のこと。そして、届け出てもらうと決めたこと。
話し終えて、顔を上げられなかった。
「……勝手なことを、申し上げて。」
恩を受けた家だった。
身寄りのない娘に家名を貸し、輿入れの支度を整え、「うちの娘なのだから」と言ってくれた家だった。
その籍を、実の家が見つかったからと抜けていく。
「――雨鈴。」
明珠の声は、驚くほど穏やかだった。
「顔を上げて。」
「……はい。」
「よかったわねえ。」
心から、そう言った。
「あなた、お父様がいらしたのねえ。……見つかって本当によかったわ。」
「あの、でも、私、沈家の。」
「籍の話?」
明珠は、あっさりと手を振った。
「そんなもの、どうぞ李様のところへお移しなさい。それがあなたの本当なんだもの。」
「……でも」
「雨鈴」
明珠は、少しだけ身を乗り出した。
「うちがあなたを迎えたのは、家名を貸すためよ。あなたが困っていたから、貸したの。……もう困っていないなら、返してもらって結構。」
「そんな、簡単に。」
「簡単よ。」
きっぱりと、そう言い切ってから、明珠は笑った。
「でもね。籍がどこにあろうと、うちの娘であることに変わりはありませんよ。」
雨鈴の目の奥が、熱くなった。
「……いいん、ですか?」
「当たり前でしょう。あなた、うちで何回ご飯を食べたと思ってるの。」
「私も!私も姉妹のままですからね!」
明琳が、ぐずぐずになりながら袖を掴んでくる。
雨鈴は、こらえきれずに笑った。
笑いながら、思った。
――居場所は、減らない。
名前が変わっても、家が変わっても。一度もらった場所が続いていく。
届出は、思いのほか、静かに進んだ。
李瑯が礼部に出した書付。
十五年前の預け先を示す証文。
白楊村の夫婦から押さえた割符。
沈家からの、快諾の一筆。
そして、陛下の裁可。
最後の書付が戻ってきた日、雨鈴は、麗妃の宮に呼ばれた。
「――おめでとう、と言うべきなのかしらね。」
麗妃は、扇を畳んで、まっすぐに雨鈴を見た。
「雨鈴さん、これから大変よ。分かってる?」
「はい。」
「末席の側室が、突然、礼部尚書の娘になった。……後宮の誰もが、あなたの席次のことを考え始めるわ。あの子の正妃の座は、まだ空いているもの。」
雨鈴の指が、動いた。
考えないようにしていたことを、この人は、あっさりと口に出す。
「……私は、末席のままで構いません。」
「あなたがどう思うかは、関係ないの。」
麗妃の声は、厳しかった。
「後宮は、そういう場所よ。……座が空いていて、資格のある女がいれば、周りが勝手に動き出すわ。あなたが望まなくても、あなたを担ぎたい家が出てくる。あなたを落としたい家も出てくる。」
「……はい。」
「だから、これからは、今までより厄介よ。」
そこで、麗妃は、ふ、と笑った。
「でも、あなたなら大丈夫。」
「え?」
「この一年で、あなた、何をしてきたと思ってるの。詩会も、毒も、仮面の宴も、敵国も。……全部、生き延びたじゃないの。」
扇の先が、雨鈴の鼻先を指した。
「……ねえ、雨鈴さん。」
麗妃は、扇を開いた。
「一つだけ、訊いていいかしら?」
「はい」
「あなた、あの子のこと、好き?」
茶を、吹きかけた。
「な……!れ、麗妃様、いきなり何を。」
「まあ、いきなりではないわよ。一年も見ていたんですもの。」
「そ、それは…」
「好きなの?嫌いなの?」
「……す、」
そこで、言葉が詰まった。
顔が、耳まで熱い。
扇の向こうの目が、面白がってこちらを見ている。
「……ずるいです、その訊き方。」
「あらあら、そうなのね。」
麗妃は、ぱちん、と扇を閉じた。
そして、満足そうに一つ頷いた。
「……そう。なら、あの子は難題をちゃんと乗り越えたのね。」
「え?」
「なんでもないの。こちらの話。」
何のことだか、雨鈴にはさっぱり分からなかった。
麗妃は、それきり何も説明しなかった。
ただ、その日はずいぶん機嫌がよかった。
その夜。
雨鈴は、灯りの下で、一枚の紙を広げていた。
李瑯への、返事の文だった。
何度書き直しても、しっくりこない。堅苦しくすれば嘘くさくなり、崩せば軽くなる。
翠華に習った作法通りの文面は、どれも他人行儀すぎた。
「……難しい。」
「何をしているんだ?」
景辰が、戸口から覗き込んだ。
「手紙の返事を書いてるの。……届出は済んだけど、私、まだ一度もちゃんとお礼を言ってないから。」
「ふむ。」
「なんて書けばいいと思う?」
「俺に訊くな。」
「じゃあ、なんで覗いたの?」
「……灯りが、つきっぱなしだったからだ。」
景辰は、卓の向かいに腰を下ろした。それから、書きかけの紙を、少しだけ見た。
「……堅いな。」
「でしょ?」
「お前の文章ではないな。」
「え?」
「翠華の教えた形だ。……お前が普段しゃべる言葉と、まるで違う。」
雨鈴は、筆を置いた。
「でも、尚書様だし。」
「父親だろう。」
短く、そう言った。
「あの人が十五年待ったのは、礼部尚書宛ての、綺麗な文か?」
――違う。
雨鈴は、新しい紙を取った。
そして、書いた。
『お父様へ。
このたびは、私を娘として届け出てくださり、ありがとうございました。
ずっと、自分が誰から生まれたのか、分からずにおりました。白楊村では違う名で呼ばれ、都では占い屋の雨鈴で、今は側室です。どれも私なのですが、その前に何があったのかだけが、ずっと空白でした。
だから、書付に李の名が入ったと聞いた時、何と言えばいいのか分かりませんでした。嬉しいのとも、少し違う気がします。ずっと立っていた場所に、今になって床が敷かれたような、そんな感じです。
お礼が遅くなって、すみません。
それと、一つだけお伝えしておきたいことがあります。
私は、お父様を恨んでいません。
白楊村のことをお聞きになって、ご自分を責めていらっしゃるのだろうと思います。でも、あの村にいた十三年がなければ、私は都へ出ていません。都へ出ていなければ、占い屋を開いていません。占い屋を開いていなければ、今の私はどこにもおりません。
回り道でしたけれど、ちゃんと、ここまで来られました。
ですので、もう十分です。
近いうちに、また会いに行ってもいいですか。母の話を、もっと聞きたいです。一日では足りないと思うので、何回かに分けてください。
あと、ちゃんと食べてくださいね。この前お会いした時、頬が削げていらっしゃいました。顔色が悪いと、母に叱られますよ。』
書き終えて、読み返して、雨鈴は思わず笑った。
作法も何もない。翠華が見たら卒倒しそうな文だった。
「……これでいい?」
景辰は、それを一読して、小さく頷いた。
「泣くな、あの人。」
「え、まずい?」
「いや。」
景辰は、紙を返した。
「――それでいい。」
数日後、李瑯から返事が来た。
封を開けると、中には短い文と、小さな包みが一つ。
文には、こうあった。
『雨鈴様。
お礼を申し上げるのは、こちらにございます。長年、届け出ることができずにおりました。あなたが許してくださらねば、私は死ぬまで、あなたの父ではございませんでした。
恨んでいない、とのお言葉を頂戴しました。
……申し訳ございませんが、その一行だけは、素直に受け取れずにおります。あなたがお許しくださっても、私が私を許せません。どうか、それだけは、私にお預けください。
いつでも、お越しください。何日でも、何年でも、母上の話をいたします。
食事は、いたします。……顔色が悪いと叱られては、敵いませんゆえ。』
包みの中には、櫛が、もう一つ入っていた。
黒檀の、新しい櫛。歯の並びは、揃っている。
添え書きが、一枚。
『十五年前、贈るつもりで求めたものです。渡す機会が、ございませんでした。』
雨鈴は、二つの櫛を、並べて置いた。
古い方と、新しい方。
母が使った櫛と、母が使うはずだった櫛。
「……お母さん。」
そっと、呼んだ。
「私、お父さんに会ったよ。」
返事は、なかった。
けれど、なぜか、少しだけ、叱られた気がした。食が細い、眠りが浅い、顔色が悪い、と。
雨鈴は、笑った。笑いながら、泣いた。




