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死を諦めた占い師は、皇子に目をつけられた  作者: ここば


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第九十話:門は開いている

その噂が後宮を回り始めたのは、その月の終わりだった。


「……第二皇子殿下が、朝堂にお出にならないの。」


麗妃の宮の茶会で、蘭月はそう切り出した。


「お怪我のせいでは?」


「傷はもう塞がっているそうよ。それなのに、この半月、一度も。……その代わりにね、あちこちの家へ、文が飛んでいるらしいの。」


「文?」


「ええ。……何を書いておられるのかは、誰も知らないわ。」


蘭月は、扇の陰で声を落とした。


「それでね。噂はもう、別の方を向いているの。――第二皇子殿下は、次の御代を、お望みでないらしい、と。」


雨鈴の手から、茶碗が滑りかけた。


その使いが来たのは、翌日の午後だった。


「主が、お茶を一杯どうかと。」


柏峰の口上は、いつも通り簡潔だった。

通されたのは、あの四阿だった。

腕の吊りは取れている。卓の上には、茶が二つ。

布は、巻いていなかった。


「聞きましたよ。」


雨鈴は、前置きもせずに言った。


「朝堂に、お出になっていないって。」


「ああ。」


「あちこちの家に、文を出してるって。」


「耳が早いな。」


景明は、茶を注ぎながら答えた。


「……昔の、後始末をしている。」


「後始末?」


湯気の向こうで、男の目が伏せられた。


「雨鈴。この宮に、側室が何人いるか知っているか?」


「……十人、と伺っています。」


「なぜだと思う?」


雨鈴は、答えられなかった。

皇子の婚姻は、家と家の縁だ。

側室の数は、後ろ盾の数だ。

後宮に入ってから、嫌というほど教わった。

分かっていて、ずっと、訊けずにいた。


「……家を、集めていたんですよね。」


「そうだ。」


あっさりと、認めた。


「地方の家。港を持つ家。街道を握る家。人を出せる家だ。……十の家から一人ずつ迎えれば、十の土地を、同時に探せる。」


「……探す?」


「名しか知らん娘を、この広い国から探し出す。俺一人では、できん。」


雨鈴の指先が、冷たくなった。


「……私を?」


「ああ。」


「それでは、あの方たちは私を見つけるために…」


「知らん。」


景明の声が、低くなった。


「何も知らずに嫁いできて、何も知らされずに、この宮にいた。……名を、正しく覚えていない者すらいる。」


雨鈴は、口元を押さえた。


「……ひどい。」


「ああ。」


「本当に、ひどいです。」


「そうだな。」


言い訳を、一つもしなかった。


「俺は、あの者たちを道具にした。……それは、俺の罪だ。詫びて済むものでも、返して済むものでもない。」


雨鈴は、茶碗を握りしめた。

何と言えばいいのか、分からなかった。


しばらく、二人は黙って茶を飲んだ。

庭の木が、風に鳴っている。


「……雨鈴。」


「はい。」


「一つ、訊いていいか?」


「どうぞ。」


景明は、茶碗を置いた。


「お前は、この先、どうしたい?」


「……どう、とは?」


「後宮にいるか、出るか。……お前の生まれが明らかになれば、道はいくつもある。李の家に戻ることも、家名を頼りに、別のどこかへ嫁ぐこともできる。」


雨鈴は、瞬きをした。

考えたことも、なかった。


「……出ません。」


即答だった。


「ほう。」


「だって、私、ここにいたいんです。」


湯気の向こうで、男の目が、わずかに動いた。


「末席ですし、作法も下手ですし、この一年で何度も死にかけましたけど。……あそこに帰ると、翠華がいて、蒼真がいて、蒼楽が茶化してきて。それで、夜になると、あの人が来るんです。」


雨鈴は、そこで少し笑った。


「政の愚痴を言って、お茶を飲んで。……最近は、そのまま朝までいるんですけど。」


かちり、と。

茶碗を置く音が、やけに硬かった。


「……ほう。」


「あ、旅の間に、そうなっちゃって。ほら、宿の部屋が足りなくて、ずっと同じ部屋だったから。」


「同じ、部屋。」


「はい。それで、都に戻ってからも、なんとなく一緒に。」


湯気の向こうで、男のこめかみが、ぴくりと動いた。

雨鈴は、まるで気づかなかった。


「なんて言うか……そういうみんなといる時の時間が、たぶん、いちばん好きです。」


風が、四阿を通り抜けた。


「…………そうか。」


景明は、それだけ言った。

一拍、遅かった。


「変ですか?」


「いや。」


男は、茶碗の中を見ていた。


「……よく分かった。」


その声が、いつもより少しだけ低かったことに、雨鈴は気づかなかった。


その夜、第三皇子の宮に、使いが来た。

景辰が通されたのは、同じ四阿だった。

卓の上には、茶が二つ。昼と、同じ場所に。


「――座れ。」


「兄上。」


「座れと言っている。」


景辰は、腰を下ろした。


「……十の家に、文を出しておられると伺いました。」


「ああ。」


「何を、お書きに?」


「変わらぬ、と書いた。」


景辰の眉が、動いた。


「……変わらぬ、とは?」


「俺が次の御代を望まずとも、この宮と十家の縁は、何一つ変わらぬ。……そう書いて、当主一人ひとりに、俺の名で送った。」


景明は、茶を注いだ。


「娘御は、このまま俺の宮に置く。家への扱いも、今まで通りだ。……望んで実家へ帰る者があれば、その時は丁重に返す。だが、こちらから追い出しはせん。追い出せば、縁が切れる。」


景辰は、しばらく言葉を探した。


「……なぜ、そのようなことを?」


「お前が、要らぬ女を娶らずに済むようにだ。」


茶碗が、卓に置かれた音がした。


「お前が次の御代に立てば、地方の家は、争って娘を差し出してくる。後ろ盾が要るからだ。……だが、後ろ盾なら、もう揃っている。この宮に。」


「……兄上。」


「断る口実は、俺がくれてやる。十家はすでに皇家と結んでいる、二重に娶る謂れはない、とな。……誰も、押し込めん。」


景辰は、動けなかった。

兄が、何をしようとしているのかが、遅れて理解できた。

この人は、次の御代を捨てる。

捨てた上で、十人の女と十の家を抱えたまま、その全部を使って――弟の宮に、新しい側室が入らぬようにしようとしている。

一生、あの者たちを手放さずに。


「……なぜ、そこまで?」


「昼に、あれと話した。」


景明は、庭を見ていた。


「後宮を出る道もあると言った。李の家に戻る道も、別のどこかへ嫁ぐ道もあると。」


「……!」


「即答だった。出ません、とな。」


男は、そこで一度、言葉を切った。


「あそこにいたい、と言った。……翠華がいて、蒼真がいて、蒼楽が茶化してきて。夜になると、お前が来て、政の愚痴を言って、茶を飲んで帰る。……その時間が、いちばん好きだと。」


景辰の喉が、鳴った。


「――で。お前は、どうなのだ?」


「私は」


景辰は、目を伏せた。

この人の前で、これを言うのか。

幼い頃から、一度も敵わなかったこの人の前で。


「……手放す気は、ありません。」


声は、低かった。

「初めは、守るための座でした。あれの力を、俺のために使わせるつもりでした。……今は、違います。」


「ふむ。」


「あれがいない宮に、帰る気はしません。……それだけです。」


四阿が、静かになった。

景明は、長いこと、何も言わなかった。

やがて、小さく息を吐いた。


「……そうか。」


それは、負けを認める者の声だった。

けれど景辰には、その意味が、まだ分からなかった。


「では、話は決まりだ。」


景明は、立ち上がった。


「陛下には、俺から申し上げる。……次の御代には、お前を推す、とな。」


「――え?」


「決めるのは父上だ。兄上も、下の二人もおられる。俺の推挙で決まるものではない。……だが、十家が動けば、朝廷の風向きは変わる。昊との盟も、玲琅殿下も、韓鉄将軍も、俺の名で繋いだものは全てお前に渡す。」


「……お待ちください。私は、そのようなことを望んで…」


「望んでおらん者が、いちばん向いている。」


きっぱりと、そう言った。


「お前は、市井の娘一人のために敵国へ渡って、王女の命を救って帰ってきた男だ。……朝廷の誰も、そんな馬鹿なことはせん。だから、お前がいい。」


「兄上。」


「――ああ、それと。」


景明は、袖を直しながら、何気ない調子で付け足した。


「十の家は、俺が抱えておくと言ったな。……これは、お前を推すこともできる。」


景辰の背が、わずかに強張った。


「――降ろすこともできる。」


静かな声だった。庭の風の音より、静かな。


「覚えておけ、景辰。」


「……承知しております。」


「それでよい。」


数日後の昼下がり。


「――殿下。雨鈴様。門に、お客様が。」


翠華の声が、いつになく硬かった。

庭で護身の稽古をつけてもらっていた雨鈴は、木剣を置いて顔を上げた。

書房から出てきた景辰と、二人で門へ向かう。

そこに、人影があった。


「――やあ。」


布のない顔で、その人は立っていた。

供は柏峰一人きり。皇子の来訪にしては、あまりに簡素だった。


「どうしたんですか?」


「兄上。……こちらへお越しとは。」


「陛下に、申し上げてきた。その足でな。」


景明は、何でもないことのように言った。


「次の御代には、お前を推す、と。……父上は、ふむ、としか仰らなかったが。」


景辰の顔が、強張った。

これで、後には引けない。この人は、朝堂に向かって、自分の退路を断ってきたのだ。


「……兄上は、これから、どうなさるおつもりです?」


「何も変わらん。」


あっさりと、そう答えた。


「この宮にいる。十家との文も、今まで通りだ。……この半月、朝堂に出なんだのは、その文を書いておったからでな。当主一人ひとりに宛てて、十通。人任せにできる中身ではない。」


「では、朝堂には?」


「明日から出る。……次の御代を望まぬだけで、俺が皇子でなくなるわけではないからな。」


「――都に、留まられるのですか?」


「当たり前だろう。」


景明は、少しだけ眉を上げた。


「母がいる。抱えた家がある。……それに、目を離せば、どこの誰が何をするか分からんからな。」


「……それは、私のことですか?」


「さて。どうだろうな。」


「お身体はもう大丈夫ですか?」


雨鈴が、横から口を挟んだ。


「この前、腕が治る前に書房にいたんでしょう?ちゃんとお医者様の言うこと聞いてください。」


「……誰が言った?」


雨鈴は、答える代わりに、景明の背後へ目をやった。

景明が、ゆっくりと振り返る。


「――柏峰。」


「は。」


「余計なことを言ったか?」


「……お身体に関わることは、申し上げてよいものと心得ております。」


「誰の許しを得て。」


「雨鈴様に、お尋ねいただきましたので。」


一分の隙もない、涼しい顔だった。景明は、こめかみを押さえた。


「……お前は、昔からそれだ。」


雨鈴が吹き出すと、景明も、少しだけ笑った。

それから、門を出かけて、足を止めた。


「――雨鈴。」


「はい。」


「何か困ったことがあったら、いつでも来い。」


布のない顔で、その人は言った。


「俺の宮の門は、お前には、いつでも開いている。」


「……ありがとうございます。」


雨鈴は、素直に頭を下げた。

心強い言葉だと、思った。

この人は、あの日、私を庇ってくれた人だ。

十五年、名前だけを頼りに、私を探し続けてくれた人だ。

だから、そう言ってくれるのだろうと。


「景辰、よかったね。優しいお兄様がいて。」


何の気なしに、隣を見上げた。

景辰は、答えなかった。

兄の目が、こちらを見ていた。

ほんの一瞬。雨鈴ではなく、弟の方を。


――ああ。

景辰は、たった今交わされた言葉の意味を、そこで理解した。

この人は、諦めたのではない。

門を開けたまま、待つと言ったのだ。

つまり――俺が雨鈴を泣かせたら、その時は連れて行く、ということだ。

次の御代を譲り、十の家を抱え、弟のために道を整えて。

その上で、たった一つだけ、条件を残していった。

この娘を、泣かせるな。


「……そうだな。」


景辰は、短くそう答えた。


「心強い限りです。」


兄の背が、門の向こうへ遠ざかっていく。

蓮池を回れば、すぐそこにある宮へ。

歩いて、四半刻もかからない場所へ。

雨鈴は、見えなくなるまで手を振っていた。

隣に立つ男が、その間ずっと、拳を握りしめていたことには、最後まで気づかなかった。


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