第八十九話:父との再会
文が届いたのは、秋霞が都を出て、五日後のことだった。
白い紙。飾りのない筆。
差出人の名を見て、雨鈴は、しばらく動けなかった。
――礼部尚書、李瑯。
「……父、から?」
言ってから、その言葉が自分の口から出たことに、驚いた。
文面は、短かった。
一度、お会いしたい。ご迷惑であれば、無理にとは申しません。
お返事は、いただかなくとも結構です。
それだけだった。
「……どうする?」
景辰が、静かに訊いた。
「会わぬという道もある。……お前が受け入れる義理は、何一つない。」
雨鈴は、文を見つめていた。
十五年。顔も知らない人。
母を愛し、母を守れず、私を遠くへやった人。
銭を送り続けた人。その銭を、あの二人は酒に変えた。
憎いのか、恨んでいるのか、それとも――自分でも、分からない。
「……会ってみます。」
雨鈴は、顔を上げた。
「訊きたいことが、あるから。」
場所は、麗妃の宮の一室が用意された。
どちらの家でもない場所を、と麗妃が気を利かせたのだ。
景辰は隣室に控え、翠華だけが、雨鈴の後ろに立った。
戸が開く。
入ってきたのは、背の高い、痩せた男だった。
五十がらみ。官服ではなく、地味な常服。
髪には白いものが混じり、頬は削げている。
朝堂で見た者たちが口を揃えて「礼部尚書は、この月で十も老けた」と言うのも、無理はなかった。
男は、雨鈴を見た。
そして、その場に、膝をついた。
「――!」
雨鈴が、慌てて立ち上がる。
「あの、おやめください。私、側室ですけど、あなたは尚書様で。」
「……似ておられる。」
掠れた声だった。
李瑯は、膝をついたまま、顔を上げられずにいた。肩が、震えている。
「申し訳、ございません。……少しだけ、このままで。」
雨鈴は、何も言えなかった。
部屋に、男の押し殺した息の音だけが、しばらく続いた。
「……あなたを、あの村へお預けしたのは、十五年前にございます。」
卓を挟んで向かい合ってから、李瑯は、そう切り出した。
「一つになったばかりでした。妻が亡くなり、ひと月くらいでしょうか。」
「……そんなに、すぐ。」
「はい。……崔の刃が、あなたに向く前に。それしか、考えられませんでした。」
雨鈴は、茶碗を握った。
「それから、どうしてたんですか?」
「年に二度、報せが参りました。達者にしている、と。」
「……達者じゃ、なかったですけど。」
言ってしまってから、雨鈴は唇を噛んだ。
責めるつもりはなかった。ただ、口が勝手に動いた。
李瑯は、目を伏せた。
「……存じませんでした。それは、本当に。」
「はい。」
「報せには、いつも、達者にしていると。……あの村に人を出したのは、三年に一度でした。それも、遠くから様子を見るだけで。近づけば、崔の者に気づかれますゆえ。」
男は、拳を握っていた。
「そして、三年前。」
声が、硬くなった。
「報せが、途絶えました。」
雨鈴の指が、止まった。
「……私が、飛び出した年。」
「はい。……あの家の者は、娘が家を出て行方が知れぬ、と申しました。その先は、何も。」
李瑯は、顔を上げられずにいた。
「人を出しました。近隣の村も、街道筋も。……ですが、十三の娘が一人、都へ向かったなどとは、誰も思いませんでした。私も、思いませんでした。」
三年。
雨鈴は、その長さを、頭の中で数えた。
裏通りの、あの三年。看板を出して、客を取って、翠玉楼の裏で団子をもらって。
この人は、その三年、私を探していた。
「……見つけられませんでした。」
李瑯は、そう言った。
「十五年、守っているつもりでおりました。……その守りが、初めから何一つ守っていなかったと知ったのは、最近にございます。」
「それって…」
「はい。崔の家が潰れ、家の者が調べを受け、そこで初めて。」
声が、途切れた。
「石を投げられていたと聞きました。家の内に閉じ込められていたと。……飛び出したのではなく、逃げ出されたのだ、と。」
李瑯は、深く頭を下げた。
「守っているつもりで、差し出しておりました。……申し開きは、ございません。」
雨鈴は、茶碗を握りしめた。
「……なんで、あの村だったんですか?」
「遠縁の者の、村にございました。」
「遠縁?」
「はい。……あの夫婦は、李の家の、ごく遠い縁続きの者です。血は、ほとんど繋がっておりませんが、名だけは辿れる。……崔の目を避けるには、都から遠く、ごく貧しく、そして、私と縁のある家がよいと考えました。」
縁があるからこそ、悪いようにはしないだろうと。
そう考えたのだ、この人は。
「……間違えました。」
李瑯は、そう言った。
「あの者たちは、銭のためなら何でもいたしました。……そして、崔に見つかった時、一切を売りました。」
「……母のこと、教えてください。」
雨鈴は、そう言った。
「私、何も知らないんです。顔も、声も。どんな人だったかも。」
李瑯の目が、揺れた。
「……何から、申し上げればよろしいか。」
「全部。」
男は、少し笑った。笑ってから、その目が、急に若返ったように見えた。
「……口はあまりよくない人でした。」
「え?」
「宮の占い師でしたが、まるで、それらしくありませんでな。お告げの口調も何もない。当たり前のように、こう言うのです。その日は出かけるな、荷を担ぐな、と。」
「……市の人みたい。」
「まさに、そうでした。市井で占いをしていたところを召し抱えられたそうです。」
雨鈴の指が、動いた。
「初めてお会いしたのは、私が三十の時です。朝廷で失態を犯し、酷く落ち込んでおりました。……その時、廊下ですれ違いざまに、こう言われました。『そんな顔で歩いていると、階段で転びますよ』と。」
「……それ。」
「転びました。三段ほど。」
雨鈴は、思わず吹き出した。吹き出してから、目の奥が熱くなった。
「以来、頭が上がりませんでした。」
李瑯の声が、少しだけ柔らかくなった。
「それからは、用もないのに、宮の裏手を通るようになりました。……いい歳をした男が、何をしているのかと、自分でも思いましたが。」
「……声、かけたんですか?」
「かけられませんでした。二年ほど。」
「二年!?」
「……口実を、探しておりました。」
雨鈴は、頭を抱えたくなった。この慎重さ。似ていない。まったく似ていない。
「じゃあ、どうやって。」
「あの人が、痺れを切らしました。」
李瑯は、少しだけ笑った。
「ある日、通りかかりますと、道の真ん中に立っておりましてな。こう言われました。――『あなた。私に御用がおありなら、二年も待たせずに仰ってくださいまし。こちらは占い師ですが、殿方の心まで視えるわけではございません』と。」
「……全部、ばれてたんじゃないですか?」
「ばれておりました。」
雨鈴は、声を上げて笑った。笑いながら、頬が濡れた。
会ったことのない人の輪郭が、一つずつ、形になっていく。
「……一緒に暮らしてから、どうでした?」
「静かでした。」
李瑯は、目を細めた。
「私は、朝廷では気を張っております。家に戻れば、妻がおり、家の者がおり、そこでも気を張っておりました。……あの人のところだけが、静かでした。」
「静か。」
「よく、叱られました。食が細い、眠りが浅い、と。……私に向かって、顔が悪い、と申すのですよ。」
「……ふふ。」
「あの人は、私を、尚書として扱いませんでした。」
雨鈴の指が、止まった。
――あの家に行くと、俺は皇子ではなかった。
四阿で聞いた声が、重なった。
同じだ。この人も、あの人も、同じことを言っている。
母のところだけが、誰も、何者かでいなくてよかったのだ。
「……お母さんって」
雨鈴は、そっと言った。
「そういう人、だったんですね。」
「はい。」
李瑯は、はっきりと頷いた。
「正妻には、詫びても詫びきれぬことをいたしました。家と家の縁で迎え、心を向けられなかった。……あの人は、それを責め続け、そして、あの人の家が、私の大事なものを奪いました。」
李瑯は、目を閉じた。
「私は、崔に何も言えませんでした。妻の生家であり、朝廷での勢いは、あちらが上でしたゆえ。……あの人の死を、病と届けたのは、私です。」
「……」
「十五年、そうやって生きてまいりました。」
長い沈黙の後、李瑯は懐から、小さな包みを取り出した。
「これを、お渡ししたく参りました。」
解かれた包みの中には、櫛が一つ。
黒檀の、飾り気のない櫛だった。歯の並びが、少しだけ不揃いで、使い込まれて角が丸くなっている。
「あの人の櫛です。……市で買った、安物だと申しておりました。私が良いものを贈っても、これしか使いませんでした。」
雨鈴は、それを、そっと受け取った。
手のひらに、木の重みがある。
母が、毎日、これで髪を梳いていた。
「……ありがとうございます。」
それ以上、言葉にならなかった。
帰り際、李瑯は、戸口で足を止めた。
「……雨鈴様。」
「はい。」
「一つだけ、お伺いしても、よろしいでしょうか?」
「何でしょうか?」
男は、深く息を吸った。
「あなたを、李の娘として届け出ることを、お許しいただけますでしょうか?」
部屋が、静かになった。
「崔の家は、潰れました。もう、誰も、あなたを害することはできません。……十五年、できずにいたことを、今ならできます。」
李瑯の声は、震えていた。
「ですが、これは、私の勝手にございます。今さら親を名乗るな、と仰るなら、そう仰ってください。……私は、それを受け入れます。」
雨鈴は、答えられなかった。
李の娘。名門の、娘。
それが何を意味するかは、この一年で嫌というほど学んだ。家名。格。後ろ盾。そして――席次。
けれど今、雨鈴の頭にあったのは、そんなことではなかった。
私は、誰の子か。
ずっと、それを知らずに生きてきた。あの家の子でもなく、どこの子でもなく、ただ「不幸を呼ぶ子」として。
「……少し、考えさせてください。」
雨鈴は、そう言った。
「すぐには、答えられません。……でも、必ずお返事します。」
「――はい。」
李瑯は、深く礼をした。
「お待ちいたします。……何年でも。」
戸が閉まってから、雨鈴は、手の中の櫛を見つめた。
「……お母さん。」
初めて、その言葉を、口に出した。




