第八十八話:十五年
宮へ戻る道すがら、雨鈴は一言も喋らなかった。
景辰も、訊かなかった。
門をくぐり、部屋に入り、翠華が茶を置いて下がってからも、二人はしばらく黙っていた。
「……景辰。」
「ん?」
「私、あの人の妹だって。」
声が、震えた。言葉にした途端、それは初めて現実になった。
だから、順に話した。
秋霞の言葉を、覚えている限り、一言も落とさずに。
母が宮の占い師だったこと。
陛下が父に下賜したこと。
父が、本当にあの人を愛していたこと。
正妃がずっと待っていたが、一度も振り向いてもらえなかったこと。
そして、自分が生まれたこと。
崔家が、秋霞を皇后にするため、第二皇子を狙い続けていたこと。
十五年前のあの日、景明が誰にも言わず二の宮を抜け出したこと。
その場所が、母の住まいのすぐ近くだったこと。
「……母は、逃げようと思ったら逃げられた状況だったんだって。」
雨鈴の声が、掠れた。
「狙われてたのは志遠さんだけだから、置いて逃げれば、追われなかったって。……でも、しなかった。布を解いて、あの人の顔に巻かせて、庇って…」
景辰は、目を閉じていた。
「……兄上は、それを知らないのか?」
「うん。自分がそこにいたから巻き込んだ、ってずっと思ってる。……でも、本当は」
譲られたのだ。
「……ねえ、景辰。私、このこと、言ったほうがいいかな?」
雨鈴は、膝の上で、手を握りしめていた。
「あの人は、十五年、自分のせいだと思って生きてきたの。それを支えに、私を探してくれた。……それ、違いましたって。」
「――雨鈴。」
「黙ってたら、あの人は今まで通りでいられる。……嘘でも、そのほうが」
景辰は、すぐには答えなかった。
茶碗を持ち上げ、一口飲み、静かに置いた。
「……知れば壊れるから教えない、というのは、守っているようで、見くびっているんじゃないか?」
雨鈴が、顔を上げた。
「兄上は、確かめ終えていないと言って、お前に何も教えなかった。……あの時、お前は、嬉しかったか?」
胸の奥の、あの気持ち。
「……嬉しく、なかった。」
「そうだろう。」
景辰は、ゆっくりと言った。
「兄上は、十五年、自分を罰してきた。……その罰が、間違った罪に向けられていたなら、教えてやるのが筋だ。受け止められるかどうかは、兄上が決める。」
雨鈴は、目を閉じた。
それから、立ち上がった。
「……行ってくる。」
「一緒に行くか?」
「ううん。」
「――そうか。」
景辰は、引き止めなかった。
「戸の外にはいる。……呼べば、すぐ入る。」
第二皇子の宮。
景明は、寝台ではなく、四阿にいた。
腕を吊り、薄い上衣を羽織って、庭を眺めている。
医者の言いつけを守る男ではないらしい。
布は、巻いていなかった。
「――やあ。」
雨鈴を見つけると、その顔が、少しだけ笑った。
素顔で笑うと、この人は、思ったよりずっと若く見えた。
「見舞いにきてくれたのかい?」
「……それもあるけど、伝えたいことがあって。」
雨鈴は、四阿に上がった。
向かいには座らず、少し離れた欄干に、手をついて立った。
「秋霞様に、会ってきました。」
景明の目が、細くなった。
「……そうか。」
「私、あの人の妹でした。」
短い沈黙。
「知っていたんですね?」
「……割符の紋を見た時に、そうではないかと思った。」
「教えてくれませんでしたね。」
「ああ。」
「なんで?」
「言えば、お前が駒になるからだ。」
同じ答えだった。何度も聞いた、正しい答え。
雨鈴は、それを、受け取らなかった。
「志遠さん。……あの日のこと、母が亡くなった日のことを聞かせてください。」
風が、庭を渡った。
景明は、しばらく答えなかった。
それから、庭の方へ顔を向けたまま、口を開いた。
「……あの時、俺は六つだった。」
初めて聞く声だった。皇子の声でも、志遠の声でもない、ただの男の声。
「二の宮を、こっそり抜け出したのだ。供も連れず、誰にも言わずに。」
「……なんで?」
「会いたかったんだ。」
短く、そう言った。
「いつもは、ちゃんと人を通していた。お伺いを立てて、供をつけて。……面倒だったが、そうしなければ会わせてもらえんからな。だが、あの日は、どうしても、我慢ができなかった。」
「何か、あったんですか?」
「……何も。」
景明は、少し黙った。
「何もない。ただ、母上の部屋の前を通ったら、また、物を投げる音がしていた。それだけだ。」
雨鈴は、息を呑んだ。
「……母君。」
「――知っているか。俺の母は、後宮でいちばん寵愛の篤い妃だということになっている。」
「はい。……聞いたことがあります。」
「それは嘘だ。」
あっさりと、景明は言った。
「父上が、そう触れを出させた。……母は、心を病んでいる。三つの頃から、俺のために出された膳が何度毒に当たり、俺の寝所に何度刃が入ったか。……母は、その全部を数えていた。」
雨鈴は、動けなかった。
「数えて、数えて、壊れた。……俺が生まれてから、いっそう。俺の顔を見ると、悲鳴を上げるようになった。」
声は、驚くほど平坦だった。
「父上は、母を守るために、嘘をついてくださった。寵が深いゆえ奥にお隠しになっている、と。……あの嘘のおかげで、誰も母に近づかん。誰も、母が壊れていると知らん。俺の継承の目も、潰れずに済んだ。」
景明は、そこで、初めてこちらを見た。
「感謝している。今も。……だが、六つの俺には、母がいなかった。」
雨鈴の目の奥が、熱くなった。
「後宮でいちばん愛されている妃の子だと、誰もが言う。羨ましいと言う。……誰にも、言えなかった。言えば、母が危うくなる。」
「……それで」
「ああ。」
景明は、庭を見た。
「宮の裏手に、よく当たる占い師がいると聞いた。……面白半分に、はじめて行ってみたのだ。自分の未来を訊きに。」
雨鈴の心の臓が、鳴った。
「……そこで母に、会ったんですね。」
「ああ。」
「どんな人でしたか?」
「――初めて会った時…」
景明の口元が、ふ、と緩んだ。
「いきなり、怒られた。皇子様が供も連れずに何をしている、と。……この宮で、俺を叱った者は、あの人が初めてだった。」
「……母らしい。」
「らしいのか?」
「たぶん。」
知らない。何も知らない。それでも、そう思った。
「それから、腹は減っていないかと言われて、饅頭を食わされた。硬くて、あまり美味くなかった。……それを言ったら、また怒られた。」
笑いながら、その声が、少しずつ、揺れていった。
「二度目に行った時には、赤子がいた。」
「……私。」
「泣いてばかりで、うるさかった。」
「それは悪かったですね。」
「しかも急にお前を抱かされた。」
雨鈴が、顔を上げた。
「腕が痛いと言ったら、皇子様なら泣いている者くらい抱きなさい、と言われてな。……押し付けられた。」
景明は、吊った腕を、少しだけ動かした。
「重かった。……そして、温かかった。」
風が、止まった。
「不思議なものだ。俺の宮には、何十という人がいた。誰もが俺に膝をついた。……それなのに、人の温かさを知ったのは、あの、うるさい赤子が初めてだった。」
雨鈴は、口元を押さえた。
「あの家に行くと、俺は皇子ではなかった。叱られて、饅頭を食わされて、赤子を押し付けられた。……それが、どういうことか、当時は分からなかったが…」
景明は、そこで言葉を切った。
「――あそこだけが、俺の生きている場所だった。」
雨鈴は、しばらく何も言えなかった。
布を巻いたあの人が、なぜいつも菓子の話をしたのか。
なぜ市の値段を面白がったのか。なぜ、あんなに嬉しそうに絵本を貸したのか。
全部、あの家の続きだったのだ。
「……志遠さん。」
「何だ?」
「私、あなたに伝えなきゃいけないことがあります。」
雨鈴は、欄干から手を離した。
「母は、あの襲われた日、逃げることもできたそうです。」
庭の空気が、止まった。
「狙われていたのは、あなただけだった。あなたを置いて逃げれば、崔の者は追わなかった。……母には、指一本、触れなかったそうです。」
「――何を言って…」
「でも、母は逃げなかった。自分の布を解いて、あなたの顔に巻くように伝え、背に庇って。……秋霞様が、そう言いました。」
景明の顔から、表情が消えた。
「……嘘だ。」
「そうかもしれません。」
「あの女の、最後の悪足掻きだ。お前を苦しめるために。」
「そうかもしれません。……でも、あなたは確かめられる。」
雨鈴は、まっすぐに言った。
「あなたは、調べる人です。私を、十五年、名前だけを頼りに探した人でしょう。……なら、これも調べられる。」
景明は、動かなかった。
長い、長い沈黙だった。
「……俺は」
やがて、掠れた声が落ちた。
「俺が行かなければ、あの人は死ななかった。……十五年、そう思ってきた。」
「はい。」
「その通りだった。……狙われていたのは、俺だ。俺が、危ないものを、あの家の前まで運んだ。」
「はい。」
「だが。」
男の肩が、震え始めた。
「……巻き込んだのではなく、譲られたのか。」
雨鈴は、答えなかった。
答える代わりに、歩いて、その正面に立った。
「志遠さん。……母は、あなたに死んでほしくなかったんです。」
「――!」
「それだけは、間違いないと思います。だって、逃げられたのに、逃げなかったんだから。」
景明は、片手で、顔を覆った。
「……あの人は」
声が、崩れた。
「あの人は、いつも、俺を叱った。……俺を、皇子として扱わなかった。」
「はい。」
「だから、俺のために、死んだのか。……皇子だからではなく」
「はい。」
雨鈴は、そっと言った。
「たぶん、あなただったから、です。」
四阿に、風が渡った。
泣いている、とは、言わないことにした。
この人は、きっと、そう言われたくないだろうから。




