第八十七話:最後の刃
崔家の取り調べは、三日続いた。
蔵から出た文の控えと帳面は、昊国で押さえた七通と照合され、一分の狂いもなく合った。
銭の流れも、万家への送金も、全て記録に残っていた。自分を守るために残した紙が、家を絞めた。
三日目の夕、勅が下りた。
崔英は官位を剥がれ、崔家は爵を削られ、一族は都を追われることとなった。
第二皇子誘拐については、当主の直接の関与は「不明」とされた。
証が出なかったからではない。
皇子が攫われたという事実を、公の記録に残さぬためだった。
表向きは、外患を招いた罪。
それで、十分だった。
「――正妃様が、宮を出られます。」
報せが来たのは、その翌朝だった。
生家が潰れた正妃は、後宮にいられない。
離縁の沙汰が下り、秋霞は都の外れの尼寺へ移されることになった。
「……第一皇子殿下は?」
「殿下は、何も仰らなかったそうです。」
翠華の声は、静かだった。
「ただ、門までお見送りに立たれた、と。」
雨鈴は、窓の外を見た。
蓮池の向こう。
三日前まで、この後宮の頂に近い場所にいた人。
「……翠華。」
「はい。」
「私も見送りに行ってもいい?」
翠華の手が、止まった。
「……なぜ、でございますか?」
「分からない、」
正直に答えた。
「憎いの。あの人が、私の周りの人を傷つけた。義父と義母を殺して、志遠さんを攫って、あなたにも毒を盛らせた。……許してない。許す気もない。」
「では…」
「でも、私、あの人に一度も、なんで、って訊いてないから。」
雨鈴は、窓の縁を握った。
「なんで私だったのか。……それを知らないまま終わったら、たぶん、一生引きずると思う。」
尼寺へ向かう馬車の列は、驚くほど簡素だった。
荷は、行李が二つ。
供は、老いた女官が一人。
三日前まで正妃だった女の、その全部だった。
門の外れで、雨鈴は待っていた。
景辰が、少し離れた場所に立っている。
今日は、そこから動かないと決めているらしかった。
馬車が止まり、簾が上がった。
「――まあ。」
秋霞は、笑った。
化粧を落とし、飾りを外し、地味な衣に着替えても、その微笑みだけは、何一つ変わっていなかった。
「お見送りいただけるなんて。……嬉しいこと。」
「秋霞様。」
「よしてくださいな。もう、様をつけていただく身分ではないの。」
秋霞は、馬車を降りた。
三日前まで正妃だった女は、雨鈴の前に立つと、少しだけ首を傾げた。
「……訊きに来たのね。」
「はい」
「なぜ、あなただったのか。」
「はい。」
「素直ね。昔から、そうだったの?」
昔から。
その言い方に、雨鈴の背筋が、ざわりとした。
「……私と、どこかで?」
「いいえ。会ったことはないわ。……ただ、知っていただけ。」
秋霞は、供の女官を、手で下がらせた。
風が、門前を渡った。
「雨鈴さん。あなた、ご自分の母上のこと、覚えていらして?」
心の臓が、跳ねた。
「……いいえ。」
「そう。……なら、教えてさしあげましょうか?」
微笑みは、崩れなかった。
「あなたの母上は、この宮にいらしたの。占いをなさる方でね。……陛下の御代の初め、宮に置かれていた、ただ一人の占い師。」
息が、止まった。
宮の、占い師。
「よく当たると評判でね。陛下は、その方を、ある殿方に下賜なさった。……礼部尚書、李瑯様。」
「……どなた、ですか?」
「わたくしの、父よ。」
風が、止んだ気がした。
「わたくしの父は、正妃を持っておりました。わたくしの母です。……崔の家から、李の家へ嫁いだの。家と家の縁ですわ。父の心がどこにあるかなんて、誰も考えなかった。」
秋霞の声は、あくまで穏やかだった。
「そこへ、あの占い師が入ってまいりました。……父は、あの方を、本当に愛しておりましたのよ。」
一拍。
「母は、ずっと待ちましたわ。父の心が、いつかこちらを向くと信じて。……向きませんでした。一度も。」
雨鈴は、何も言えなかった。
「そして、あの方に、子が生まれた。」
秋霞が、雨鈴を見た。
「わたくしは、その時、四つでした。母が泣いているのを、毎晩見ておりましたわ。……だから、覚えているの。あなたの名前を。」
言葉の意味が、頭に入ってこない。
入ってこないのに、身体だけが、先に理解している。指先が、氷のように冷えていく。
「――では私は…」
声が、掠れた。
「ええ。」
秋霞は、たおやかに微笑んだ。
「わたくしの、妹よ。」
世界が、音を失った。
「初めてお会いした日、すぐに分かりましたわ。名前。年頃。そして――お顔。あの方に、よく似ていらっしゃる。」
よく似ていらっしゃる。
茶会の日、すれ違いざまに囁かれた言葉が、蘇った。
「だから、優しくして差し上げたの。ずっと、どなたよりも。」
秋霞は、少しだけ首を傾げた。
「……ねえ、雨鈴さん。わたくし、一度でも、あなたに冷たくいたしまして?」
していない。
一度も。あの人は、いつも、誰よりも優しかった。
宴でも。月見の席でも。
あの過剰な優しさの全部が、監視だった。
そして、あの指先の冷えは。
「……なぜ、殺そうとしたんですか?」
雨鈴は、ようやく、それだけ言った。
「妹なら。……知っていたなら。なぜ?」
「知っていたから、よ。」
初めて。
本当に初めて、秋霞の微笑みが、消えた。
「あなたが生きて、あなたの生まれが明るみに出れば。……崔の家が、十五年前に何をしたかも、明るみに出るもの。」
「……何を、したんですか?」
「母の家は、わたくしを皇后にするつもりでしたの。」
秋霞は、遠くを見るように言った。
「そのためには、邪魔な方がいらした。……当時、いちばん見込みのあった御子。第二皇子殿下。」
雨鈴の指が、止まった。
「崔の家は、何度も手を伸ばしましたわ。あの方が生まれた頃から。毒も、刃も。……もう、数え切れないほど。」
「そんな」
「ご存じかしら。第二皇子殿下の母君に、お会いになったことは?」
「……いいえ。」
「そうでしょうね。どなたもございませんもの。」
秋霞は、目を伏せた。
「後宮では、こう申しますのよ。陛下のご寵愛が深すぎて、奥にお隠しになっているのだ、と。……皆、羨んでおりますわ。」
雨鈴の背筋が、冷えた。
何度も刃を向けられる子を、抱えて。
誰にも会わず、奥の奥に。
「そして十五年前の、あの日。」
秋霞は、まっすぐに雨鈴を見た。
「殿下は、お一人でいらしたの。」
「……お一人?」
「ええ。護衛も、お付きの者も、誰一人連れずに。……あの方は、二の宮を、こっそり抜け出しておいでだった。」
雨鈴の指先が、冷えた。
「なぜ、そんな…」
「会いたかったのですって。……あの占い師に。」
秋霞は、ふ、と息を吐いた。
「いつもは、ちゃんと人を通しておいででしたのよ。お伺いを立てて、供を連れて。六つの御子にしては、ずいぶん聞き分けのよい方でしたわ。……でも、その日だけは。」
どうしても、会いたくなった。
六つの子どもが、誰にも言わずに宮を抜け出す。
それが、どれほど幼くて、どれほど当たり前のことか。
「崔の者には、願ってもない好機でしたわ。何年も、隙を探しておりましたもの。……供のいない皇子など、そう転がっているものではございません。」
「……襲ったんですね。」
「ええ。……ただ、場所が悪うございました。」
秋霞は、静かに言った。
「崔の者が追い詰めたのは、宮の裏手。……あの占い師の住まいの、すぐ近くでしたのよ。」
雨鈴の息が、止まった。
「騒ぎを聞きつけて、あの方が飛び出していらした。……赤子を、置いて。」
「……赤子。」
「あなたよ。」
世界が、揺れた。
「一つになるやならずの頃でしょう。家の中に、あなたを寝かせたまま。……あの方は、外へ出ていらしたの。」
雨鈴は、口元を押さえた。
何も覚えていない。何ひとつ。
あの日、自分はそこにいた。
母が死んだ場所の、すぐそばに。
「そして、殿下を背に庇いましたわ。ご自分の布をその顔に巻くように伝え、逃げなさいと。」
雨鈴は、手のひらを思わず握り締めた。
「そして、あの方だけが、残った。」
世界が、傾いだ。
あの日。
あの人が、十五年、背負ってきた日。
「……殿下は?」
「あの方は、ずっと思い違いをしていらっしゃるのよ。」
秋霞は、実に優しい声で、言った。
「ご自分がそこにいたせいで、あの女を巻き込んだ。……そうお思いでしょう。」
「……違うんですか?」
「半分は、その通りですわ。狙われていたのは、殿下ですもの。」
秋霞は、静かに首を振った。
「けれど、あの女は、巻き込まれたのではないの。」
「……え?」
「逃げられたのよ、あの方。」
雨鈴の息が、止まった。
「崔の者が取りに行った命は、たった一つ。殿下のお命だけ。……あの女が、殿下を置いて逃げていたら、誰も追いはしませんでしたわ。指一本、触れなかった。」
秋霞の声が、ほんのわずかに、硬くなった。
「それを、しなかった。……ご自分の布を解いて、殿下の顔に巻いて、背に庇って。あの女は、逃げられたのに、残ったの。」
「――!」
「巻き込まれたのではありません。選んだのですわ。……あの方の代わりに、死ぬことを。」
雨鈴は、動けなかった。
巻き込んだのではない。譲られたのだ。
あの人が十五年背負ってきたのは、自分のせいで死なせたという罪。
けれど本当は――あの人は、誰かに命を譲られて、それを知らずに生きてきた。
「十五年、ご自分のせいだと思って、あなたを探し回って。……本当は、生かされたのに。」
秋霞は、そこで、ほんの少しだけ、笑った。
「お伝えになる?それとも、黙っていて差し上げる?」
雨鈴は、動けなかった。
「……あなた」
声が、震えた。
「最後まで、そういう人なんですね。」
「あら。……わたくし、嘘は一つも申しておりませんわ。」
秋霞は、馬車へ戻りかけて、足を止めた。
振り返った、その顔から、微笑みが、すとんと落ちた。
「――雨鈴さん。」
初めて聞く、平らな声だった。
「わたくしね、子どもの頃、ずっと思っておりましたの。母は愚かだと。」
「……え?」
「正妃の座があるのに。家柄も、身分も、何もかも勝っているのに。なぜ、あんな女ひとりに泣かされるのか。……わたくしなら、そんな無様な真似はしないと。」
秋霞は、少しだけ、笑った。
自嘲だった。初めて見る種類の、笑い方だった。
「――同じでしたわ。」
「……」
「わたくしも、正妃にございます。この一の宮で、いちばん高い席を頂戴しております。……それで、殿下のお渡りが、幾晩あったとお思い?」
雨鈴は、答えられなかった。
侍女たちの噂を、思い出していた。
第一皇子殿下は、毎晩、紫蘭様のもとへ。
不滅の愛だ、と。
「母と、同じところに立っておりましたのよ。座は持って、心は持てない。……血とは、よくいったものですね。」
「秋霞様。」
「だから、あなたが憎かったわけではないの。」
秋霞は、馬車の簾に手をかけた。
「ただ、あなたをお見かけするたび、思い出すのです。……身分も後ろ盾もない娘が、皇子に望まれて、宮へ連れてこられた。」
雨鈴の心の臓が、小さく鳴った。
そんなことはない、と言いかけて、言えなかった。
名分だけの婚姻だと、この人には言えない。
言えないうちに、秋霞は続けた。
「生前母が待って、ついに手に入らなかったものを。……あなたも、あなたの母上も、何もせずにお持ちになっている。」
微笑みが、戻った。
たおやかで、完璧で、どこにも隙のない、あの微笑みが。
「それが、どうしても、許せなかっただけ。」
簾が、下りた。
馬車が、静かに動き出す。
門前に残された雨鈴は、遠ざかるその車を、ただ見送っていた。




