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死を諦めた占い師は、皇子に目をつけられた  作者: ここば


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第八十六話:表と裏

蔵の外は、静かだった。

西市の路地は眠ったままで、質屋の看板だけが、風に鳴っていた。

中であれだけの音がしたのに、誰も出てこない。

この界隈の者は、崔家の蔵で何が起きても、戸を開けないことを知っているのだ。


「――生きている者、七。死んだ者、二。逃げた者は、なし。」


蒼楽が、肩で息をしながら報せた。


「柏峰殿の手の者が、路地の両端を塞いでました。……あの人ら、いつの間に。」


「半刻前からです。」


柏峰が、淡々と答えた。


「主をお返しいただけぬ場合に備え、こちらでも段取りをさせていただきました。」


「怖い人ですね、ほんと。」


景辰は、蔵の壁に寄りかかっている兄に、歩み寄った。


「――兄上。」


「……遅いではないか、景辰。」


「これでも急ぎました。」


兄弟は、しばらく黙って、互いの顔を見ていた。

景明の腕の傷は深く、衣は血で黒く濡れている。

それでも、この人は立っていた。


「……歩けますか?」


「歩ける。……肩は、貸せ。」


「どちらですか。」


血の気の失せた顔だが、それでも景明は笑った。


雨鈴は、少し離れた場所で、蒼真に手を温められていた。

未来視の冷えではない。ただの、恐怖の名残だった。刃が空を切った音が、まだ耳から離れない。


「……蒼真。」


「は。」


「間に合ってくれて、ありがとう。」


「刻と位置を、あなたが教えてくださったからです。」


蒼真は、剣を拭いながら言った。


「俺は、教えられた場所に、教えられた刻に、行っただけです。……あれは、あなたの手柄です。」


雨鈴は、返事の代わりに、少しだけ笑った。


蔵の奥から、柏峰が戻ってきた。

両腕に、木箱を一つ抱えている。


「殿下。……これをご覧下さい。」


「何だ?」


「蔵の奥の、床下にございました。……崔家が、蔵に隠すほどのものです。」


景辰が、蓋を開けた。

紙束。帳面。そして、油紙に包まれた、文の束。

高峻が、灯りを寄せ、一枚を取り上げた。その手が、止まった。


「――殿下。この料紙は…」


「言え。」


「昊国で押さえた七通と、同じにございます。……宮中の御用紙。裁ち方も、寸法も、同じ。」


景辰の目が、鋭くなった。


「控えか。」


「おそらくは。……出した文の写しを、手元に残しておいたものかと。」


「――なぜ残す?」


「消さぬためです。」


柏峰が、静かに言った。


「汚れ仕事をした家は、必ず控えを残します。いつか主家や部下に切られた時、それが唯一の盾になりますゆえ。」


景辰は、箱の中を見下ろした。

昊の主戦派を焚きつけた文。その控え。そして、帳面。おそらくは、銭の出入りの記録。

――崔家が、自分を守るために残した紙が、そのまま、崔家を絞める縄になる。


「持ち帰る。全部だ。」


同じ頃。

王宮の朝堂には、明かりが灯っていた。

夜明けを待たず、崔家当主が召されていた。

玄淵は、玉座から、その老人を見下ろしていた。


崔英(さいえい)。前の吏部尚書。

崔家を三十年率いてきた男であり――第一皇子の正妃・秋霞の、伯父にあたる。


「崔英。……白楊村の夫婦を、知っておるか?」


「存じませぬな。」


「西の三の木戸の帳面に、そなたの家の名がある。亥の刻過ぎ、駕籠一つ、担ぎ手六人。」


「家人の誰かが、家名を騙ったものかと。」


「ほう。そなたの家は、札を盗まれても気づかぬか。」


「……恐れながら、大家には人が多うございます。」


老人は、頭を下げたまま、崩れなかった。証はない。だから崩れない。そういう男の姿だった。

玄淵は、脇息に頬杖をつき、しばらく黙っていた。

そして、言った。


「……第二皇子が、攫われた。」


朝堂が、どよめいた。


「昨日、都の南でな。市井の者を弔いに出たところを、二十を超える手の者に襲われた。……崔英。そなた、何か聞いておるか?」


「な……何も。」


初めて、老人の声が揺れた。


「そうか。何も知らぬか。」


玄淵は、頷いた。


「では、そなたの家の蔵に、皇子が転がっておったとしても――そなたは、何も知らぬということになるな。」


老人の顔から、血の気が引いた。


「陛下、それは…」


「知らぬ、と申したのはそなただ。崔英。」


玉座の声が、初めて、冷えた。


「知らぬ家に、皇子が転がっておった。……ならばそれは、そなたの家の誰かが、主に知らせず皇子を攫ったということよ。家の内も治められぬ者が、朝廷の柱を名乗るか。」


「――陛下!」


「あるいは」


玄淵は、遮った。


「そなたが、知っておったか。……どちらを取る。崔英。」


朝堂は、水を打ったように静まり返っていた。

知らぬと言えば、家の失態。

知っていたと言えば、皇子誘拐の罪。

どちらを取っても、崔家は終わる。

老人は、床に手をついたまま、動けなかった。


「――申し上げます!」


その時、伝令が朝堂へ駆け込んできた。


「第三皇子殿下、御帰還!第二皇子殿下を、御救出!」


玄淵の口の端が、ほんのわずかに、上がった。


「……間に合ったか。」


呟きは、誰にも聞かれなかった。


崔英が引き立てられた後、朝堂に、もう一人が召された。


「――李瑯(りろう)。前へ。」


進み出たのは、五十がらみの男だった。

痩せた、背の高い男。礼部尚書・李瑯。

李家は代々、朝廷に重臣を出してきた家柄で、その格は崔家と並ぶ。

……いや、格だけなら、李家の方が古い。

そして、崔家から正妃を迎えていた家でもある。


「そなたの妻の生家が、大事を起こした。」


「……面目次第もございません。」


李瑯は、深く頭を垂れた。


「李の家は、崔家の企てに、一切関わっておりませぬ。証は、いかようにもお調べを。」


「調べておる。関わりは、出ておらん。」


「……恐れ入ります。」


「だが」


玄淵は、脇息から身を起こした。


「李瑯。昔、そなたに、朕から一人の女を賜ったな。」


朝堂の空気が、動いた。

李瑯の肩が、目に見えて強張った。


「……はい。」


「宮の占い師であった。よく当たると評判の、あの女だ。……名を、覚えておるか?」


「――忘れたことは、ございませぬ。」


声が、掠れていた。

玄淵は、しばらくその男を見ていた。


「……あの女は、どうなった?」


「……」


「李瑯。」


「……十五年前に、身罷りました。」


「病か。」


長い、長い沈黙があった。


「――病と、届けましてございます。」


朝堂に、ざわめきが走った。届けた、という言い方の意味を、聞き逃す者はいなかった。

玄淵は、それ以上、追わなかった。


「……そうか。」


ただ、一言。


「下がってよい。」


李瑯は、深く礼をして、退がっていった。

その背中は、朝堂へ入ってきた時より、ずっと小さく見えた。

誰もいなくなった玉座の上で、玄淵は、低く呟いた。


「……朕が、渡したのだ。」


あの女は、下賜を告げた日、初めて泣いた。

嬉しくて泣いたのだと、後で聞いた。

李瑯も、同じ日に、人目も憚らず頭を下げたという。

良い縁だと思っていた。

宮の外へ出してやれば、あの女は、ただの女として生きられると。


「……守りきれると、思うておったわ。」


玄淵は、目を閉じた。

同じ時期に、もう一人、守らねばならぬ女がいた。

第二皇子の母。度重なる毒と刃に心を削られ、子を産んでからは、いっそう。

あの女を守るために、朕は嘘をついた。

宮中に触れを出し、寵を篤くしていると装い、人を近づけず、奥へ奥へと隠した。


その嘘は、今も生きている。

後宮の誰もが、あの女を寵妃だと信じておる。

誰も近づけぬのは、陛下の寵が深いゆえだ、と。


「……守れた者と、守れなんだ者が、おるな。」


誰にも聞かれぬ言葉だった。

玄淵は、玉座の肘掛けを、指で一度、叩いた。


第一皇子の宮。

報せを受けた秋霞は、鏡の前で、髪を梳かせていた。


「……そう。」


それだけ言った。

侍女が下がり、一人になると、正妃は鏡の中の自分を見つめた。

蔵は落ちた。文の控えも、渡ったのだろう。

伯父上は、朝堂で追い詰められている。

崔の家は、もう保たない。


――終わりね。

けれど、その顔には、不思議と焦りがなかった。

秋霞は、髪に挿していた歩揺を、そっと抜いた。

銀の細工。母の形見。

毎晩泣いていた、あの人の。


「……でも、まだ、言っていないことがあるの。」


鏡の中の女が、たおやかに微笑む。


「あの子は、まだ何も知らないまま。……それだけは、わたくしの手にある。」


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