第八十五話:一歩
その日の夕刻、雨鈴は三度、矢を撃った。
亥の刻の少し前。亥の刻。亥の刻の少し後。
十秒ずつ、三十秒。
視えたのは、あの男だけだった。
一本目。石の壁。縛められたまま、壁に背を預けている。動きはない。
二本目。立っている。縛めが解けている。
周りに、幾つもの滲み。
もやの向こうに、四角い光――戸口だ。
男は、その戸口の方を見ている。
三本目。
男が、動いた。左へ半歩。そして、腕を伸ばす。
小さな滲みを、引き寄せる。背に、庇う。
男の口が動く。――う、りん。
光が走り、身体が崩れる。
「……分かった。」
雨鈴は、目を開けた。
手が氷のように冷たかったが、声は震えなかった。
「戸口から入って、三歩。そこから少し右。あの人は、そこに立ってる。……私は、その左の、半歩前。」
景辰が、図の上に、指を置いた。
「ここか?」
「うん。刃は、右の奥から来る。あの人が左へ半歩動いて、私を背に庇った。……つまり、刃が来る側は、右。」
「ならば…」
「私が、あの人の右に立てばいい。」
部屋の空気が、止まった。
「――待て。」
「待たない。だって、そうでしょう? あの人が庇うのは、私が左にいるから。私が右にいたら、庇うために動く必要がない。……刃の前に立つのは、私。」
「馬鹿を言うな!」
景辰が、卓を叩いた。
「それでは、お前が。」
「最後まで聞いて。」
雨鈴は、まっすぐに景辰を見た。
「私が右に立つ。でも、そこに立ち続けるとは言ってない。……刃が来る刻を、私だけが知ってる。来ると分かってる刃なら、避けられる。」
「――避ける?」
「一歩、下がるだけ。あの人は庇うために動かない。刃は、誰もいない場所を通る。……その一瞬に、蒼真が入る。」
蒼真が、顔を上げた。
「……刃の落ちる位置と刻が、事前に分かっているのなら」
静かな声だった。
「――獲れます。」
亥の刻。
西市の質屋は、看板も下ろさず、戸だけを開けていた。
雨鈴は、一人で、その敷居をまたいだ。
奥へ通される。裏手の路地。
石造りの蔵。錠が外され、重い扉が引かれた。
黴と、埃と、鉄の匂い。
蔵の中には、灯りが一つ。
そして、男たちが、十人ばかり。
壁際に、志遠がいた。
縛められたまま、壁に背を預けて。
袖は裂け、血が乾いている。
それでも、顔を上げた時のその目は、腹の立つほど、いつも通りだった。
「……来たのか。」
「来ますよ」
「馬鹿だな。」
「言われると思ってました。」
視た通りの光景だった。何もかも。
――だから、変えられる。
「娘。一人か?」
男たちの中から、一人が進み出た。
上等な衣。崔家の家人だろう。
「一人です。」
「よろしい。……では、皇子殿下には、お帰りいただこう。」
縛めが、解かれた。
志遠が、ゆっくりと立ち上がる。戸口の方を見る。
――二本目の矢と、同じだ。
雨鈴は、息を吸った。
視えた通りなら、次に、この人は左へ半歩動く。
私を庇うために。
だから雨鈴は、歩いた。
男の、右側へ。
「……何を?」
「そこに、いてください。」
「雨鈴。」
「動かないで。お願い。」
小声で、早口で。視た通りの刻が、近づいてくる。
「私が、ここにいる限り、あなたは動かなくていい。……庇わなくて、いい。」
志遠の目が、初めて、揺れた。
「――お前。」
「志遠さん。私、あなたの顔を見たの。」
雨鈴は、前を見たまま言った。
「だから、視えたんです。あなたの未来が。……初めて。」
男が、息を呑んだ。
「――やめろ。」
掠れた声だった。
「やめろ、雨鈴。俺の未来など、視るな。」
「もう、視ました。」
「何を視た?」
「あなたが、死ぬところ。」
蔵の空気が、止まった。
「――今だ。」
雨鈴は、一歩、後ろへ下がった。
右の奥から、光が走った。
誰もいない空間を、刃が切り裂く。
志遠は動かなかった。
動く理由が、そこになかったからだ。
そして、刃を振り抜いた男の、がら空きの右側へ。
蔵の梁の上から、影が落ちた。
「――蒼真!」
剣が、鳴った。
あとは、一瞬だった。
天井から蒼楽が、戸口から柏峰と巌牙が、蔵の裏の破れ窓から景辰が。
蔵の中が、怒号と金属音で満たされる。
灯りが倒れ、影が乱れ、崔家の家人が悲鳴を上げて逃げ惑う。
雨鈴は、壁際に引き倒されていた。
引き倒したのは、志遠だった。
血の滲む腕で、覆いかぶさるように。
「……庇わないでって、言ったのに。」
「刃が来たら庇う。……それは、未来とは関係ない。」
男の顔が、すぐそこにあった。布のない顔。
痛みに歪んでいない、素顔。
柔和で、整っていて、そして――泣きそうな顔をしていた。
「……なんで、そんな顔するんですか?」
「……お前が、生きているからだ。」
声が、掠れていた。
「十五年だ。……十五年前探すと誓った。やっと見つけて、それでも、名乗れずにいた。……今日、死ぬところだった。お前を、また、死なせるところだった。」
「また?」
男は、答えなかった。
答える代わりに、その額が、雨鈴の肩に落ちた。
重かった。震えていた。
蔵の奥で、剣の音が止んだ。
「――確保!」
蒼楽の声が、響いた。




