第八十四話:引き換え
文は、夜半に届いた。
門前に置かれた、小石を載せた一枚の紙。
差出人の名も、家の紋もない。
――皇子を生きて返したくば、明日亥の刻、西市の質屋へ。
娘一人で来られたし。供の影あらば、皇子の首を返す。
「……娘一人で。」
高峻が、読み終えて、顔を上げた。
「引き換え、ですな。そして、雨鈴様を一人で呼び出す。狙いは、初めから…」
「分かっている。」
景辰は、紙を握り潰しかけて、止めた。
証だ。潰してはならない。
雨鈴は、卓の端で、その紙を見ていた。
明日、亥の刻。西市の質屋。
――視えた通りだ。あの場所に、私はいる。
「行かせることできん。」
景辰が、言った。
「お前が行かなければ、兄上がお前を庇う場面も起きないだろう。……視えた未来は、お前がそこにいることが前提だ。いなければ、変わるはずだ。」
「変わるけど……でも、どう変わるかは、視えないわ。」
雨鈴は、静かに言った。
「それに私が行かなかったら、あの人たちは志遠さんをどうするの?用済みの駒は、川に流す家よ。皇子だから生かしておく?もう、そんな線は越えてると思う。」
景辰は、答えられなかった。
「私が行けば、あの人は私を庇って倒れる。それは、視えた。……でも、視えたなら、変えられる。あなたが教えてくれたのよ。未来は、変えられるって。」
「雨鈴。」
「知らないまま行くのと、知って行くのと。どっちが、あの人を救えると思う?」
景辰は、長いこと黙っていた。
兄を取るか、この娘を取るか。そんな問いを、この娘は、初めから成り立たせない。両方を取りに行く、と言っている。
「……ねえ。陛下はこのことを知っているの?」
雨鈴が、そっと言った。
「皇子様が攫われたのよ。明日には崔家の当主を召されるんでしょう。陛下にお報せすれば、禁軍でも何でも…」
「報せはした。」
景辰は、短く言った。
「戻ってすぐにだ。……父上は、既にご存じだった。」
「え?」
「兄上の宮から、先に報せが上がっていた。……その上で、こうお答えになった。」
景辰は、目を伏せた。
「――『動かぬ』と。」
雨鈴は、言葉を失った。
「……なんで?」
「理由は三つあります。」
高峻が、静かに引き取った。
「一つ。皇子が攫われたと公にすれば、それは皇家の恥にございます。異国にも、地方の諸侯にも、皇子一人守れぬ宮中だと知れ渡る。……昊との盟を結んだばかりの、この時に。」
「でも、命が。」
「二つ。禁軍を出して蔵を囲めば、崔家は必ずこう申します。――知らぬ存ぜぬ、我が家に皇子などおらぬ、と。そして囲まれた蔵の中で、証を消します。」
高峻の声が、低くなった。
「消される証の中に、第二皇子殿下が入ります。……蔵から遺体すら出てまいりません。」
雨鈴の指が、冷えた。
「三つ。崔家は、代々の重臣を出した家にございます。証のないまま兵を向ければ、朝廷が割れます。……陛下は明日、正面から当主を召される。それが、陛下の戦にございます。」
「じゃあ、志遠さんはのことを見捨てるつもりなの?」
「――だから、父上は俺に、こう仰った。」
景辰が、顔を上げた。
「『朕は、明日、崔を正面から召す。表は朕が受け持つ。……裏で何が起きたかは、朕は知らぬ』と。」
部屋が、静まり返った。
雨鈴は、その言葉を、二度、頭の中で繰り返した。
知らぬ。つまり――咎めぬ、ということだ。
陛下は、表から崔家を叩く。
その隙に、こちらが裏から兄を奪い返す。
成功すれば不問にする。しくじれば、陛下は何も知らなかったことになる。
「……そんなのずるい。」
「父上だからな。」
景辰の口の端が、ほんの少しだけ歪んだ。
「それと、もう一つ。……お前が視たことは、父上には言っていない。……言えば、あれは妖しの女だと言い出す者が必ず出るかもしれん。昊で高峻が言った通りだ。」
あの時と、同じだった。明かせぬ証は、今度も明かせない。
「だから、これは俺たちの手でやる。……禁軍は来ん。来られん。」
「……分かった。」
雨鈴は、深く息を吸った。
誰も助けに来ない。
それは、裏通りにいた頃からずっとそうだった。
違うのは、隣に人がいることだ。
「……俺も行く。」
「え、でも…」
「供の影を見せるな、と書いてある。……見せずに行く。蒼真、蒼楽。柏峰の手も借りる。」
「柏峰様?」
「――来ている。門の外で、半刻前から。」
柏峰は、土間に膝をついたまま、頭を上げなかった。
「主を、お救いください。……この通りにございます。」
「頭を上げろ。兄上を見捨てる気はない。……それより、質屋だ。知っているな?」
「は。」
柏峰は、懐から油紙の包みを出した。半分に割られた木の札。
「西市の質屋は、崔家の裏の窓口にございます。この割符を持って娘の居所を報せろと、白楊村の夫婦は言われておりました。……質屋の裏手に、蔵が三つ。石造りの、古いものが。」
石の壁。暗くて、狭い。雨鈴が視た、あの場所。
「主が囚われておいでなら、そのいずれかかと。」
「見取り図は?」
「主の命で、前に写させております。……こちらに。」
景辰は、図を広げた。高峻と蒼楽が、覗き込む。
「亥の刻に、雨鈴が正面から入る。兄上が引き出される。……その時が、勝負だ。」
「殿下。」
柏峰が、顔を上げた。
「一つだけ、申し上げてよろしゅうございますか?」
「言え。」
「主は……十年以上、一人の娘を探しておられました。」
部屋の空気が、変わった。
「理由は、私も存じません。ただ、探しておられた。方々に人をやり、名だけを頼りに。……そして、見つけたと仰ったのが、昨年の秋。殿下が、市井から占い師をお連れになった、その日にございます。」
雨鈴は、息を呑んだ。
昨年の秋。城の廊下。名乗ってもいないのに、名を知っていた男。
「……その日から、主は隣国との縁組みを要らぬと仰り、そして――」
「柏峰。」
「……私はここまでしか知りません。これ以上は、主の口から。」
柏峰は、また頭を下げた。
景辰は、何も言わなかった。言えなかった。
十年以上、探していた。名だけを頼りに。
そして俺が、見つけて、連れてきた。
――兄上は、初めから。
「……分かった。それだけで、十分だ。」
夜が、更けていく。
雨鈴は、牀の縁に座って、布を見ていた。
泥を落とし、乾かした白い布。
志遠、と縫われた二文字。
十年以上、探していた。
誰を。……私を?なぜ?
分からない。分からないまま、明日、あの人の前に立つ。
「――眠れないか?」
景辰が、戸口に立っていた。
「うん。」
「俺もだ。」
隣に、腰を下ろす。上衣は、もう掛けなかった。
掛ける代わりに、肩を寄せた。
「……明日、もう一度視ろ。視るのは、あの一瞬だけだ。亥の刻の前後を、刻んで。それで、兄上がいつ、どこで、誰を庇うかを、寸分違わず拾え。」
「うん。」
「拾えたら、その場所に、お前はいるな。」
「……うん。」
「とにかく、その一歩だけでも、ずらせ。」
景辰は、雨鈴の手を取った。
「兄上が庇う場所に、お前がいなければ、刃は兄上に届かん。一歩でいい。その一歩を、お前が知っている。……それが、お前の矢だ。」
雨鈴は、その手を、握り返した。
「……ねえ、景辰。」
「何だ?」
「私が視てなかったら、あの人、明日、死んでたのよね。」
「ああ。」
「私の目って本当に役に立つね。」
笑おうとして、声が滲んだ。
「不幸を呼ぶ子だって、もう呼ばせない。」
景辰は、何も言わずに、その頭を抱き寄せた。
「ああ、呼ばせるな。」




