第八十三話:初めての顔
宮に戻った時、雨鈴は、まだ布を握りしめていた。
泥のついた白い布。
志遠、と縫われた二文字。
丘を降りる時、蒼真に引かれながら、それだけは拾った。
拾わずには、いられなかった。
護衛十のうち、三人が戻らなかった。
蒼楽は肩に傷を負っていたが、それでも自分の足で歩いた。
「……面目次第もございません。」
「あなたのせいじゃない。」
雨鈴の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
まだ、何も感じられない。感じたら、崩れると分かっていた。
景辰が戻ったのは、日暮れの前だった。
御前の召しを、途中で切り上げてきたのだと後で聞いた。
廊下を走る足音が、戸の前で止まり、開いた。
「――雨鈴。」
「……ただいま。」
言った瞬間に、崩れた。
景辰は何も訊かず、その身体を抱き止めた。
震えが収まるまで、そのままでいた。
それから、ようやく蒼真に顔を向けた。
「……何があった?」
蒼真が、報せた。荷車。二十を超える手勢。殺すな、女は生きたまま、という声。
そして、志遠として現れていた第二皇子が、雨鈴を庇って、連れ去られたこと。
景辰の顔から、血の気が引いた。
「兄上が?」
「はい。……顔を見られた、連れて行け、と。あちらは、第二皇子と承知の上で。」
景辰は、しばらく動かなかった。
「……訴人は、宿の主だった。」
やがて、低く言った。
「御前で、崔家の家人から銭を受け取ったと吐いた。父上は、明日、崔家の当主を召すと決められた。……あの家は、それを知っている。知っていて、今日、動いた。」
「じゃあ、志遠さんは?」
「追い詰められた家が、皇子を一人、手の内に持っている。……どう使うかは、考えるまでもない。」
雨鈴の指が、布を握りしめた。
「――見たのか?」
景辰が、静かに訊いた。
「え?」
「兄上の顔だ。……布が剥がれたと、蒼真から聞いた。お前は、兄上の顔を見たのか?」
雨鈴は、顔を上げた。
見た。あの目。あの口元。痛みに歪んで、それでも見るな、と言った顔。
「……見た。」
「――ならば、視ろ。兄上を」
「うん。」
「今夜から明日にかけて、刻んで視ろ。……あの家が動くとすれば、当主が召される前だ。今夜か、明日の夜。十秒ずつ、拾え。」
「分かった。」
雨鈴は、布を膝の上に置いた。
「あの人は、私を庇って連れて行かれた。今度は私が助ける。」
壁際。翠華が戸を背に立ち、蒼真が正面に膝をつく。
景辰は、卓の向こうで、動かずに見ていた。
雨鈴は、目を閉じた。
あの顔を、思い返す。
柔和な目元。整った口元。痛みに歪んで――それでも、見るな、と。
胸の奥で、何かが軋んだ。
この人の未来を、私は今、初めて視る。
志遠さんと呼んで、団子を分けて、絵本を借りた、あの人の。
――視える。
指先から、冷たさが這い上がった。
もやの中に、男がいた。
男だけが、恐ろしいほど鮮明だった。
暗い。狭い。石の壁らしきものが、もやの向こうにある。
男は、後ろ手に縛られて、壁に背を預けて座っていた。
袖は裂け、血が乾いている。それでも、その顔は落ち着いていた。
腹の立つほど、いつも通りの顔だった。
「十秒。」
蒼真の声。
――次。一刻先。
同じ場所。男の前に、人の形をした滲みが立っている。
細い。女の形。声は、ざわめきに溶けて聞こえない。
男の口が、動いた。読める。
――しゅう、か。
雨鈴の心の臓が、跳ねた。
秋霞。あの人が、そこにいる。あの人が、志遠さんの前に立っている。
「十秒。」
――次。さらに一刻。
男が、立っていた。縛めが解けている。滲みが幾つも、周りを囲んでいる。
刃らしき光が、もやの中で揺れる。
男の顔が、こちらを向いた。
いや――男の前にいる、小さな滲みを見ている。他の滲みより小さい。細い。
男の口が、動いた。
――う、りん。
息が、止まった。
男が、その小さな滲みを、背に庇った。
光が、走った。
男の身体が、前のめりに、崩れた。
「――十秒。雨鈴様、戻ってください。」
肩を、揺すられた。
目を開けると、翠華の顔が、すぐそこにあった。
手が、氷のように冷たかった。それでも、頭は、恐ろしいほど冴えていた。
「……雨鈴。」
景辰が、卓を回って、膝をついた。
「何が視えた?」
雨鈴は、口を開いた。声が、出なかった。もう一度、開いた。
「……秋霞様が、あの人の前にいた。」
「!」
「それから……明日の夜。あの人は、縛めを解かれて、囲まれてて……」
言葉が、喉に引っかかった。
「誰かを、庇ってた。小さい、誰かを。……私の名前を、呼んで。」
景辰の顔が、強張った。
「……それで」
「――刃が、走った。あの人は、その人を庇って、倒れた。」
部屋が、静まり返った。
小さな滲み。他のどれよりも小さくて、細くて。
あの人が、私の名を呼んで、背に庇った。
「……あれは、私だわ。」
雨鈴は、自分の手を見た。
「明日の夜、私は、あの場所にいる。……そして、あの人は、私を庇って、死ぬ。」




