第八十二話:落ちた布
弔いの日は、朝から御前の召しと重なった。
「――刑部が、訴人の名を奏上する。父上は、俺の同席を求めておられる。」
景辰は、身支度の手を止めずに言った。
「日を、改めろ。」
「改められないの。……役所の預かりは、今日までなんでしょう?それを過ぎたら、無縁の穴に…」
「では、俺が戻るまで待て。」
「戻るのを待っていたら、日が暮れて……その頃には、埋められてる。」
景辰は、眉間に皺を寄せたまま、雨鈴を見た。
「……蒼楽と蒼真を付ける。護衛は十。未の刻までに、必ず戻れ。」
「うん。」
「――必ずだ。」
「分かってる。……ありがとう。」
南の門を出て、川沿いを半刻。
小さな丘の上に、役所が掘った穴が、二つ並んでいた。
粗末な棺。名も彫られていない、拳ほどの石が二つ。
雨鈴は、その前に膝をついた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
憎んでいた。恐れていた。顔も忘れると言った。
それなのに、今、目の前の石は、自分が「父」「母」と呼んでいた、たった二人のものだった。
懐から、小さな包みを取り出す。団子屋の女将が、また三本、持たせてくれたものだ。
「爺さんじゃなくて、そっちにやりな」と、何も聞かずに。
二つの石の前に、一本ずつ置いた。
残りの一本は、自分で食べた。
甘くて、少ししょっぱかった。
「……恨みは、ここに置いていきます。」
それだけ、言った。
「もう、探しません。……安らかに。」
蒼真が、少し離れた場所で、剣の柄に手を置いたまま、川の方を見ていた。
「――やあ。」
声は、丘の下から来た。
振り向くと、布の男が、ゆっくりと坂を上ってきていた。
蒼真の手が柄を握り直し、それから、静かに離される。
「!!志遠さん、いえ二皇子殿下。」
「……志遠でいいよ。」
「どうしてこちらに?」
「弔いには、人が多い方がいい。……そういうものだろう?」
雨鈴の隣に立ち、男は二つの石を見下ろした。
何も言わなかった。しばらく、本当に、何も。
「この人たちのこと、知ってたんですか?」
「……調べさせた。何をしたかも、どう終わったかも。」
「じゃあ、なんで来たんですか?」
「君が、泣くと思ったからだ。」
あまりに率直で、雨鈴は、返す言葉を失った。
「……泣いてません。」
「そうか。なら、俺の見立て違いだ。」
布の上の目が、いつものように細くなる。
雨鈴は、石を見た。それから、隣の男を見た。
「志遠さん。……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「何かな?」
「私、誰の子なんですか?」
風が、丘を渡った。
男は、答えなかった。
答えないことに、もう慣れていた。だから、雨鈴は続けた。
「あの二人は、私の親じゃなかった。押し付けられて、仕方なく育てた。……誰かに、預けられたんですよね?」
「……ああ。」
「その誰かを、あなたは知ってるんですか?」
「――まだ、確かめ終えていない。」
同じ答えだった。
けれど、今日はその声が、ほんの少しだけ、違って聞こえた。
「……確かめ終えたら、教えてくれますか?」
男は、長いこと、黙っていた。
「……その日が来たら、話す。俺の口からかどうかは、分からんが。」
「それ、答えになってません。」
「なっていないな。」
雨鈴は、小さく笑った。
笑ってから、この人の前で笑ったのは、久しぶりだと気づいた。
異変に最初に気づいたのは、蒼真だった。
「――雨鈴様。下がって。」
川沿いの道を、荷車の列が来ていた。
商人風の男たち。荷は、筵で覆われている。
丘の下で、その列が、止まった。
「蒼楽殿!」
「見えてる。」
筵が、跳ねた。
中から、刃が出た。
二十を超える人影が、丘へ向かって駆け上がってくる。
護衛が前に出る。金属の音。怒号。
「雨鈴様、こちらへ!」
蒼真が、雨鈴の腕を掴んで、丘の裏手へ引く。
――速い。多い。護衛の壁が、みるみる薄くなる。
「殺すな!女は、生きたまま!」
誰かの声がした。
狙いは、私だ。分かっていた。この日を、待たれていた。
裏手の斜面を、蒼真に引かれて駆け下りる。
背後から、足音。一人、二人。蒼真が振り向き、剣を抜いた。
「走ってください!」
蒼真が二人を止める。その隙間を、三人目が抜けてきた。
手が、伸びる。腕を、掴まれる。
「――!」
引き倒される、その寸前。
横から、影が飛び込んできた。
志遠だった。男の腕を掴んで捻り、体ごと斜面へ投げ落とす。
四人目の刃を、身体で受けた。袖が裂けて、血が散った。
「志遠さん!」
「走れ!」
五人目が、後ろから組み付いた。
志遠が振り解こうとして、もつれて、倒れ込む。
その手が、雨鈴の袖を掴む。引かれる。
目の前に、男の顔があった。
――布が、なかった。
組み合ううちに、引き剥がされたのだ。剥き出しの口元。額。頬。目。
初めて見る顔だった。
柔和で、整っていて、けれど今は、痛みに歪んでいる顔。
どこかで見た――ああ、景辰に似ている。目元が。
「……見るな。」
掠れた声で、男が言った。
「――雨鈴。」
けれど、もう、見てしまった。
「――走れ!!」
男が、渾身の力で、雨鈴を突き飛ばした。
斜面を転がる。蒼真の腕が、雨鈴を受け止める。
振り返った時、志遠は、五人に押さえ込まれていた。
「こいつ……皇子か!?第二の!」
「構わん!顔を見られた、連れて行け!」
駕籠ではなく、荷車の筵の下へ、男が引きずり込まれていく。
「志遠さん!!」
「雨鈴様、駄目です!」
蒼真が、腕を掴んで離さなかった。
荷車が、動き出す。
丘の斜面に、白いものが落ちていた。
雨鈴は、それを見つめた。
泥に汚れた、白い布。端の方に、拙い針目で、二文字。
――志遠。
「……まだ、持ってたの?」
声が、震えた。
あの人は、これを、腰に挟んでいた。今日も。ずっと。
雨鈴の頭の中は、布のことでいっぱいになった。




