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死を諦めた占い師は、皇子に目をつけられた  作者: ここば


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第九十五話:視えない明日

その夜、景辰が戸を叩いたのは、いつもより遅い刻だった。


「……入るぞ。」


戸を開けて、景辰は足を止めた。

雨鈴は、牀の縁に座っていた。薄い夜着の上に、もう上衣を羽織っている。


「……自分で着たのか。」


「毎晩毎晩、同じことされたら、覚えるわよ。」


少しだけ得意げに言って、それから、雨鈴は首を傾げた。


「茶室に、呼ばれたんでしょう。……陛下に。」


「ああ。」


「怒られた?」


「怒られてはいない。」


景辰は、隣に腰を下ろした。卓の向かいではなく、隣に。

しばらく、灯りを見ていた。

何から話すか、決めてきたはずだった。

決めてきたはずなのに、いざとなると、言葉の順が崩れる。


「……雨鈴。」


「うん?」


「俺は、次の御代を獲りに行く。」


雨鈴の手が、止まった。


「――え」


「兄上に推されたからではない。家々が騒ぐからでもない。……俺が、欲しいと思った。」


「玉座を?」


景辰は、自分の手を見た。


「豊陽を、覚えているか?」


「……覚えてる。忘れるわけない。」


「無実の男を誰も調べず、誰も聞かず、順序と体裁だけで死ぬところだった。……俺が助けられたのは、たまたま皇子で、たまたまあそこにいたからだ。」


「うん。」


「この国には、豊陽が幾つもある。俺の足では、回りきれん。……だから、仕組みの方を変えたい。訴える先のない者が、訴えられるように。聞いてもらえずに死ぬ者が、一人でも減るように。」


灯芯が、小さく鳴った。


「それには、座が要る。……だから、獲りに行く。」


雨鈴は、しばらく何も言えなかった。

この人が、何かを欲しいと口にするのを、初めて聞いた。


「……それでな。」


景辰の声が、少しだけ低くなった。


「父上に、訊かれた。お前の目は、どこまで届く、と。」


「……うん」


「届かん、と答えた。玉座は高すぎて、下が見えん。父上ですら、東の裏通りの占い屋を知らなかった。」


景辰は、雨鈴の方を向いた。


「だから、届く者を隣に置く、と答えた。」


雨鈴の息が、止まった。


「雨鈴。……正妃になってくれないか?」


部屋が、静かになった。


「守るためではない。飾るためでもない。……俺が上から見て、お前が下から見る。市の値の動きも、木戸の刻も、誰が軽んじられているかも、お前には見える。俺には見えん。」


「……」


「二人で、この国を見たい。……隣で、共に治めてほしい。」


雨鈴は、笑おうとした。

冗談にしようとした。

私なんかに務まるわけない、作法も下手で、字だって翠華に直されてばかりで、と。

いつものように茶化して、逃げようとした。

口が、動かなかった。

この人は、本気だった。


「……ねえ、景辰。」


やがて、雨鈴は言った。


「一つ、話してないことがあるの。」


「何だ?」


「私ね。……死のうとしたことが、あるの。」


景辰の身体が、強張った。


「あなたに会う、ずっと前。……誰にも必要とされたことがなくて、居場所なんて、一度もなくて。もう、いいかなって、思った。」


声は、静かだった。


「屋根の上に立って、足を踏み出そうとしたの。……そしたら、視えたの。自分の未来が。」


「……」


「……その後の私が、視えたの。落ちて、叩きつけられて、息ができなくなって、何もかも消えるところ。」


膝の上で、指が絡まった。


「視た途端、身体が動かなくなった。止められたみたいに。……それから、何度やっても同じだった。場所を変えても、やり方を変えても。そのたびに先に視えて、足が出なくなるの。」


「……何度も。」


「うん。死に方は毎回違うのに、結末だけは、一度も変わらなかった。」


景辰の手が、膝の上で固く握られた。


「だから、諦めたの。死ぬことを。……生きたかったわけじゃない。死なせてもらえなかっただけ。」


「……雨鈴。」


「ずっと、ただ生きてただけだったの。死ねないから、生きてた。」


雨鈴は、顔を上げた。


「――あなたに会うまでは。」


景辰は、何も言わなかった。言えなかった。


「あなた、俺のために使えって言ったでしょう。……気味が悪い、じゃなくて。使え、って。」


「……乱暴な言い方だった。」


「ふふ。そうだね。」


雨鈴は、少しだけ笑った。


「でも、あの時から、私の目は、誰かの明日のためのものになったの。一人、また一人って。」


「……」


「それで今、あなたは、この国の明日を見ようって言ってる。一人ずつじゃなくて、全部。」


声が、震えた。


「私の目、そんなところまで、連れてってくれるの?」


景辰は、答えなかった。

答える代わりに、雨鈴の手を取った。


「……私の未来はね、あれから一度も、視えてないの。」


雨鈴は、その手を握り返した。


「あなたに会ってから、一度も。……たぶん、死のうとしなくなったから。」


景辰の息が、止まった。


「視えるのは、いつも、死のうとした時だけだった。……だから、もういい。視えなくていい。」


「……」


「視えないなら、自分で決めるから。」


息を、吸った。


「――なる。正妃に。」


景辰の指に、力がこもった。


「あなたの隣で、この国を見る。上から見えないところは、私が見る。……ただし」


「ただし?」


「ちゃんと、使ってね。飾っておいたら、怒るから。」


景辰の目が、見開かれた。

それから、ほんの少し、口の端が上がった。茶室で、父に同じことを言ったばかりだった。


「……知っている。」


「なんで知ってるの?」


「お前は、使い道がないことを、何より嫌う。」


「……そうだけど。」


雨鈴は、そこで少しだけ口を尖らせた。


「ねえ。国のため、だけ?」


「……何がだ?」


「私を隣に置くの。国を見るためだけ?」


景辰は、しばらく黙っていた。

耳が、赤かった。


「……国のためだけに、毎晩ここへ通う男がいると思うか。」


雨鈴は、吹き出した。

吹き出して、それから、泣いた。

景辰の腕が、背に回った。そっと肩の方へ抱き寄せられる。いつもの温度より少し高く感じる。 

次の夜から上衣の儀式はなくなった。


それからの日々も、後宮は、相変わらず騒がしかった。

月に一度、李の家へ通うようになった。

父は、行くたびに少しずつ頬が戻り、そのたびに母の話が一つずつ増えた。


昊国からは、文が届いた。玲琅からだった。

――陸青の傷は、すっかり癒えました。三歩後ろを歩くのは、もうやめさせました。今は、隣を歩いております。父上には、わたくしから申し上げました。嫁ぐ先は、自分で選びます、と。父上は、三日寝込まれましたけれど。

――あなたも、自分で選びなさいな。

雨鈴は、声を上げて笑った。

――もう、選んだわ。

返事には、そう書いた。


蒼真に禁軍からの話が来たのは、雪の降り始めた頃だった。

将へ上がる道の、最初の一段。景辰が、自ら推したものだった。


「……お受けしないの?」


「お受けします。」


蒼真は、いつもの仏頂面で答えた。


「ただし、雨鈴様が座にお就きになってから、と申し上げました。」


「え。」


「任を解かれるその日まで、俺の全部でやると申しました。……まだ、その日ではございません。」


横で、蒼楽が大げさにため息をついた。


「ほんっとに、融通の利かない弟で。」


「兄に似ました。」


「似てないよ!」


翠華が、袖で口元を押さえて笑っていた。


朝の挨拶の場も、相変わらずだった。


「まあ、雨鈴さん。」


上座近くの妃嬪が、扇の陰で微笑んだ。


「近頃、第三皇子殿下が、次の御代を窺っておいでだとか。……では、あなたも、正妃の座を狙っておいでなのかしら?」


笑顔だった。いつもの、悪意のない形をした笑顔。

広間が、静かになった。誰もが、李の娘がどう逃げるかを待っていた。

雨鈴は、茶碗を置いた。


「はい。」


ざわ、と空気が揺れた。


「目指しております。……いずれ、あの方の隣で、この国を見るつもりです。」


沈黙が、落ちた。

誰も、何も言わなかった。言えなかった、という方が正しかった。

その沈黙を破ったのは、遠くの席からの、場違いな笑い声だった。

玉蓉だった。

扇で口元を隠しもせずに、声を上げて笑っていた。


「……ああ、おかしい。本当に言うのね、あなた。」


そして立ち上がると、つかつかと歩いてきて、雨鈴の隣に腰を下ろした。

「玉蓉さん?」


「勘違いしないで。あなたの味方になったわけじゃないわ。」


玉蓉は、つんと顔を背けた。


「ただ、この後宮で、今いちばん退屈しない席が、ここだってだけ。」


離れた席で、紫蘭がこちらを見ていた。

微笑んでいた。けれど、それは味方の笑みではなかった。


扇が、ぱちん、と閉じられる。

まっすぐにこちらへ向けられた目は、あの茶会で雨鈴を庇ってくれた時と同じく静かで、そして、それ以上に澄んでいた。

――受けて立ちます、と言っている目だった。


あの方にも、夫がいるのだ。

第一皇子殿下を、次の御代に。

そう願わない側室が、この後宮のどこにいるだろう。

散会の後、廊下ですれ違いざまに、紫蘭は足を止めた。


「恩は、忘れておりません。雨鈴さん。」


「……はい。」


「ですが、それとこれとは、別にございますよ。」


紫蘭は、柔らかく微笑んだ。


「負けませんから。」


雨鈴も、笑った。


「私もです。」


その月の二度目の日、雨鈴は、また奥の宮へ行った。

景明と、二人で。

母君は、今日も雨鈴を「あなた」と呼んだ。

そして今日は、少しだけ、歌を口ずさんだ。子守歌のような、古い歌だった。

戸口に立った景明が、その歌の途中で、そっと目を閉じたのを、雨鈴は見ていた。

帰り道、奥の宮の門を出た先の、冬枯れの庭で、雨鈴は足を止めた。


「……志遠さん。」


「何だ?」


「これ、返します。」


懐から出したのは、白い布だった。泥を落とし、何度も洗った布。

端に、拙い針目で、二文字。

――志遠。

景明は、しばらく、それを見ていた。


「……拾っていたのか。」


「あの丘で。……ずっと、渡しそびれてて。」


景明は、布を受け取った。

そして、それを――顔には巻かなかった。

丁寧に畳んで、腰に挟んだ。


「……もう、顔には巻かないんですか?」


「巻かん。」


短く、そう言った。


「二の宮に着いたら外せと、言われていた。……十五年、着かなかっただけだ。」


男は、振り返って、奥の宮の門を見た。


「もう、着いた。」


雨鈴は、何も言わずに、その横顔を見ていた。


「……景辰から、聞いた。」


やがて、景明が言った。


「正妃になると、答えたそうだな。朝の場でも言い放ったと聞いたぞ。……妃嬪の方々が、扇を落としたそうではないか。」


「落としてません。」


「三本は落ちたと聞いた。」


景明は、少しだけ笑った。

それから、まっすぐに雨鈴を見た。布のない顔で。


「――雨鈴。」


「はい。」


「お前は、立派な正妃になれる。」


風が、止まった。


「李の娘だからではない。……あの人の娘だからでもない。」


「……」


「お前が、お前だからだ。……十五年探した俺が言うのだ。間違いない。」


雨鈴の目の奥が、熱くなった。


「……ありがとう、ございます。」


「礼はいらん。」


景明は、踵を返した。


「……景明様。」


その背中に、雨鈴は呼びかけた。

男の足が、止まった。

初めてだった。この人を、その名で呼ぶのは。


「いらないって言われても、言います。……十五年、探してくださって、ありがとうございました。」


景明は、振り返らなかった。

しばらく、そのまま立っていた。冬の風が、腰の白い布の端を揺らしていた。

それから、手だけを上げた。


「……ああ。」


短い返事だった。

その声が、少しだけ揺れていたことに、雨鈴は気づかないふりをした。


その日の夕暮れ、雨鈴は、宮の東の楼に上った。

ここからなら、城壁の向こうが見える。

都の甍。夕餉の煙。そのずっと先の、ごちゃごちゃとした低い屋根の群れ。


東の裏通り。

あそこに、占い屋の看板を出していた娘がいた。

当てても当てても気味悪がられて、誰とも一緒にいられなくて。死ぬことさえ許されずに、ただ生きていた娘が。


「――ここにいたか。」


背後で、声がした。

振り向かなくても、分かった。


「冷えるぞ。」


肩に、上衣が掛けられた。自分で羽織ってきたものの上に、もう一枚。


「……二枚目なんだけど。」


「知っている。」


景辰は、隣に立った。同じ方角を、見た。


「何を見ている?」


「市。……私のお店、あのへんだったの。覚えてる?」


「ああ。」


「あそこにも、訴える先のない人が、たくさんいるの。」


「そうだな。」


「忘れないでね。……上から見てると、見えなくなるから。」


「その時は教えてくれ。」


景辰は、短くそう言った。


「そのための、隣だ。」


雨鈴は、笑った。

夕陽が、都を赤く染めていく。

自分の未来は、今も視えない。

明日、何が起きるのか。一年後、どこに立っているのか。

本当に、あの座に届くのか。何ひとつ、分からない。


けれど、もう怖くはなかった。

視えないなら、自分で決めればいい。

隣に、同じ方角を見る人がいるのだから。


――かつて、死ぬことさえ諦めた占い師がいた。

その娘は今、視えない明日へ、自分の足で歩き出そうとしている。


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