第九話:突然のお茶会で
控えめなノックの余韻が、まだ部屋の空気に残っていた。
「……他のお客様が、ぜひお茶をご一緒にと申しております。」
翠華の言葉を聞いた瞬間、雨鈴は反射的に眉をひそめた。
「いや、行かない。」
即答だった。
昼間から未来視だの賊だの血だのと、心が休まる暇もない一日だったのだ。
ようやく部屋で落ち着けたところに、知らない誰かとの茶会など冗談ではない。
翠華は少し困ったように微笑む。
「お気持ちはもっともです。」
「でしょ?」
「ですが……」
そこで翠華は扉の方を一度だけ見やり、音を立てぬよう雨鈴のそばへ寄った。
そして、ごく小さな声で耳打ちする。
「——行かれた方がよろしいかと。」
「え?」
「断る方が、後々面倒になります。」
穏やかな声音だったが、言っている内容は穏やかではない。
雨鈴は思わず顔をしかめた。
「誰なの?」
「それは……先方がご自身で名乗られるでしょう。」
答えになっていない。
けれど翠華の目は珍しく真剣だった。
「ご安心ください。私もお供いたします。」
そこまで言われれば、断り続ける方が危険なのかもしれない。
この城では、知らないことが多すぎる。
雨鈴は長く息を吐いた。
「……分かった。行く。」
翠華がほっとしたように目を細める。
「ありがとうございます。」
案内されたのは、景辰の居所から少し離れた一角だった。
夜の回廊は灯籠の明かりに照らされ、昼間とはまるで違う顔をしている。
石床には淡い光が落ち、柱の影が長く伸びていた。
人の気配は少ない。
静かなのに、どこか見られているような感覚がある。
「こういうの、やっぱり苦手……」
思わず漏らすと、翠華が小さく笑った。
「そのうち慣れます。」
やがて一つの部屋の前で足が止まった。
扉の前には侍女が二人控えている。衣服も立ち居振る舞いも上等で、ここがただの客室ではないことがすぐに知れた。
侍女の一人が静かに扉を開く。
「お連れいたしました。」
中へ通され、雨鈴は思わず息を呑んだ。
広い室内には香が焚かれ、柔らかな灯りが揺れている。
奥には低い卓が置かれ、上には茶器と菓子が整然と並べられていた。
そして、その向こうに座っていた女性が顔を上げる。
美しい。
それが最初の感想だった。
年若い少女の華やかさではない。歳月を重ねた者だけが持つ落ち着きと、磨かれた品がそこにあった。
白い肌に整った目元、穏やかに弧を描く唇。派手ではない装いなのに、部屋の空気ごとその人を中心に回っているように見える。
女性はにこやかに微笑んだ。
「あなたが、景辰殿下のお客様?」
声まで柔らかい。
雨鈴は慌てて頭を下げる。
「……蘇雨鈴です。」
「雨鈴さん。」
その名を転がすように繰り返し、女性は楽しげに目を細めた。
「良いお名前ね。」
「ありがとうございます。」
「座ってちょうだい。そんなに固くならなくていいのよ。」
促されるまま、向かいへ腰を下ろす。
視線が優しい。
けれど、その優しさの下で何かを量られている気がした。
雨鈴は思い切って尋ねる。
「……あの、失礼ですが、お名前をうかがっても?」
女性は一瞬きょとんとした後、くすりと笑った。
「名前?」
それから少しだけ遠くを見るような目になる。
「ああ、そうよね。ここでは皆、位や呼び名ばかり。」
茶杯を指先でなぞり、楽しげに続けた。
「では——蘭月、と呼んでくださる?」
その言い方が妙に自然で、けれど不思議だった。
本名なのか、そうでないのか分からない。
「蘭月さま。」
「さまはいらないわ。」
「……いえ、蘭月さま。」
再び笑われた。
何が正解なのだろう。
侍女が茶を注ぎ、部屋に香ばしい湯気が立つ。
蘭月は穏やかな声で言った。
「急に呼び立ててごめんなさいね。どうしても、お会いしたくなって。」
「私に、ですか?」
「ええ。」
まっすぐに見つめられる。
「景辰殿下のもとに、女性がいると聞いて。どんな方か、知りたくなったの。」
「……どこからお聞きになったんですか?」
「城の中では、何でも伝わるものよ。」
さらりと言う。
その言葉の重さが、じわりと胸に落ちた。
城の中では、何でも伝わる。
翠華が最初に言っていた。
声が大きいほど、聞かれる言葉も増える、と。
「景辰とは、どういう経緯で?」
「ご縁がありまして。」
「まあ、どんなご縁?運命なのかしら。」
蘭月の笑みは変わらない。
「……あの、誤解です。」
思わず即答すると、蘭月は肩を揺らして笑った。
「何が?」
「その、突然女性が来た、という部分は事実ですけど……変な意味ではなく。」
「変な意味って?」
完全に遊ばれている。
雨鈴は茶杯を持ち上げ、時間を稼いだ。
蘭月はそんな様子を楽しむように眺めている。
「景辰が怪我をしたと聞いたわ。あなたも、その場にいたの?」
雨鈴は一拍置いた。
「……はい。」
「怖かったでしょう。」
「少し。」
「少し、か。」
蘭月はくすりと笑った。
「殿下はあなたをどうして連れてきたのかしら?」
雨鈴は心の中で舌を巻いた。
占い師時代、客の本音を引き出そうとする者は多くいた。だが、ここまで自然に追い込む人は珍しい。
「雑談相手、でしょうか。」
適当に返すと、蘭月は目を丸くした。
「殿下が?」
「違うなら私も驚きます。」
今度は蘭月が声を立てて笑った。
「面白い子。」
助かった。
笑わせられれば、一度流れは切れる。
「景辰殿下とは、どこまで親しいの?」
「まだ会って日が浅いので…。」
「なのに客人扱い?」
「私も不思議です。」
「嫌われてはいないようね。」
「それも不思議です。」
答えながら、自分でもよくこんなにするすると言葉が出るものだと思う。
相手に情報を与えすぎず、けれど拒絶しすぎない。
占い師時代に身についた処世術だった。
蘭月は茶をひと口飲み、満足げに頷いた。
「上手ね。」
「何がですか。」
「かわし方。」
ぎくりとする。
見抜かれている。
当然だ。これは子どもの頃から磨いてきた技術だ。
深く関わらず、傷つかないための。
「蘭月さまは、景辰殿下と古いお知り合いなんですか?」
今度はこちらから攻めてみる。
蘭月は少しだけ遠くを見るような目をした。
「古い、ね。」
それから、柔らかく笑う。
「そうね、古いわ。」
答えているようで、答えていない。
雨鈴は別の角度から試みた。
「この城は、複雑な場所ですね。」
「そう感じた?」
「ええ。来てすぐに表と裏を感じました。」
蘭月は卓の上の菓子を、そっと雨鈴の方へ押しやった。
「食べてみて。」
唐突な仕草だった。
警戒でも、試しでもない。
ただ、勧めている。
雨鈴は少しだけ戸惑った。
こういう仕草に、慣れていない。
見返りを求めない親切を、どう受け取ればいいのか分からない。
「……いただきます。」
口に運ぶと、上品な甘さが広がった。
蘭月はそれを見て、静かに微笑んだ。
何も言わない。
ただ、微笑むだけだ。
でもその目が、雨鈴の戸惑いをちゃんと見ていた。
(……この人は。)
かわし方も見抜いた。
その奥にあるものも、見えているのかもしれない。
蘭月は茶をひと口飲んだ。
「景辰殿下はね、あまり人を近づけない子だったの。」
その声音を聞き、雨鈴の胸がざわつく。
「でも、必要だと思った人間は手放さない。」
その言葉の重さを、どう受け取ればいいのか分からなかった。
「あなたが必要とされているなら、それは本物よ。」
「……買いかぶりすぎです。」
「そうかしら。」
その真意を確かめる前に、外が急に騒がしくなった。
「お待ちください、困ります!」
侍女の慌てた声。
次の瞬間。
バン、と扉が勢いよく開かれた。
灯りが揺れる。
そこに立っていたのは、景辰だった。
「……何をしている。」
低く落ちた声に、室内の空気が一変した。




