第十話:息子の顔
バン、と勢いよく開かれた扉の余韻が、まだ室内に震えていた。
そこに立つ景辰は、夜の回廊を急いできたのか、いつも以上に鋭い空気をまとっている。
整った衣の乱れすらほとんどないのに、機嫌の悪さだけは隠しようがなかった。
その視線は、まっすぐ蘭月へ向けられている。
「……何をしている。」
低く抑えた声だった。
怒鳴っているわけではない。だが、静かな分だけ余計に怖い。
一方、蘭月はまるで春風でも受けたように穏やかだった。
「あら。もうばれちゃった?」
茶杯を持ったまま、楽しげに目を丸くする。
景辰のこめかみが、ぴくりと動いた気がした。
「雨鈴を巻き込むな。」
「巻き込んでなんていないわ。お茶にお誘いしただけ。」
「俺の客だ。俺の無断で。」
「あなた、忙しいのでしょう?いちいち許可を取っていたら日が暮れるもの。」
「今は夜だ。」
「そうだったかしら。」
まるで会話になっていない。
雨鈴は二人を交互に見た。
景辰は冷えた刃のような顔をしているのに、蘭月は終始楽しそうだ。
胃のあたりがじわじわ痛くなってくる。
蘭月はようやく雨鈴へ視線を向けた。
「ごめんなさいね。怖がらせてしまった?」
「い、いえ……」
怖いのは主にこの空気だ。
「雨鈴。」
景辰の声が落ちる。
「立て。」
「え?」
「戻るぞ。」
短い。説明がない。
蘭月が楽しげに頬杖をついた。
「まあ、せっかち。」
「用は済んだだろう。」
「まだ何も済んでいないわ。」
蘭月の声音が、ほんのわずかに変わった。
柔らかいままなのに、芯が通る。
「この子と話していたの。」
「必要ない。」
「あなたにはそうでも、私には必要なのよ。」
その一言で、室内の空気がぴんと張った。
景辰は何も答えない。
蘭月は茶杯を置き、静かに続ける。
「この子ね、城に来てまだ日が浅いのに、表と裏を感じていたわ。」
雨鈴は思わず蘭月を見た。
今の言葉は、雨鈴を褒めているのか。
それとも景辰に何かを伝えようとしているのか。
「かわし方も上手い。でも、その奥にも何かある。」
景辰の目が、わずかに動いた。
「それがどうした。」
「あなたが連れてきた子よ。知りたくなるでしょう?」
「俺が判断することだ。」
「そうね。」
蘭月はあっさりと引いた。
でも引いた気がしない。
「……私、帰ってもいいですか。」
思わず口を挟むと、二人の視線が同時に向いた。
蘭月が吹き出した。
「本当に面白い子。」
景辰は深く息を吐く。
「巻き込まれている自覚はあるようだな。」
「ひしひしと感じます。」
蘭月は満足そうに頷いた。
それから、不意に景辰へ向き直る。
「でも、安心したわ。」
「何がだ。」
「あなたが、ちゃんと人を気にかける余裕を残していたこと。」
景辰の表情がわずかに硬くなる。
「……何の話だ。」
「昔は違ったでしょう?」
蘭月の声は穏やかだった。
けれど、その一言だけで景辰の周囲の温度が下がった気がした。
雨鈴は息を呑む。
昔。
そこには、まだ自分の知らない景辰がいる。
「誰も寄せつけず、何も信じず、倒れても助けを呼ばなかった。覚えている?」
「やめろ。」
初めてだった。
景辰の声に、明確な感情が乗ったのは。
鋭く、低く、押し殺した苛立ち。
蘭月はそれを見ても表情を変えない。
「熱を出して三日寝込んだ時も、部屋の外に人を立たせることすら嫌がって——」
「母上。」
景辰が遮る。
その呼び方に、雨鈴は目を見開いた。
やはり。
蘭月は微笑む。
「ようやくそう呼んだわね。」
「……それ以上話すな。」
「どうして?事実でしょう?」
「昔話に意味はない。」
「あるわ。」
蘭月の目が静かに細められる。
「今のあなたが、どうしてそんな顔をするのか分かるもの。」
景辰は返さない。
返せない、ようにも見えた。
雨鈴は知らず知らずのうちに息を詰めていた。
この男にも、揺れる場所がある。
冷静で、何でも見通して、誰にも踏み込ませない男だと思っていた。
けれど今、目の前にいるのは、母親に過去を暴かれ苛立つただの息子にも見えた。
それが妙に可笑しくて、少しだけ安心する。
(……この人も、ちゃんと誰かの子どもなんだ。)
「……笑ったな。」
景辰の視線が飛んできた。
「えっ」
「今、笑った。」
「笑ってません。」
「口元が緩んでいた。」
「気のせいです。」
蘭月が声を立てて笑う。
「ふふ、いいじゃない。そんな顔を見せられる相手ができたということで。」
「勝手に決めるな。」
景辰は一歩踏み出し、雨鈴の手首をつかんだ。
「帰るぞ。」
「え、ちょっ——」
反論する間もなく立たされる。
意外に強い力で引かれ、雨鈴は慌てて足をもつれさせた。
「待って、転ぶ!」
「転ぶな。」
無茶を言う。
その時、後ろから蘭月の明るい声が追ってくる。
「またね、雨鈴さん。」
振り返ると、蘭月はにこにこと手を振っていた。
まるで本当に、ただ茶会を楽しんだだけの人のように。
「……はい。」
思わず返事をしてしまう。
「返事をするな。」
景辰が低く言った。
「何で!?」
「調子に乗る。」
「誰がよ。」
「母上が。」
部屋を出ると、回廊の夜気が少しひんやりとしていた。
景辰はそのまま早足で歩き続ける。
雨鈴は半歩遅れてついていく。
「痛い、手。」
「ああ。」
そう言いながら、離さない。
「離してよ。」
「……忘れていた。」
数拍遅れて手が放される。
本当に忘れていたらしい。
雨鈴は呆れながら手首をさする。
しばらく無言で歩いた後、景辰が小さく吐き捨てた。
「全く、あの人は……」
その声音には疲労と諦めと、ほんの少しの親しみが混じっていた。
昼間、廊下で微動だにしなかった男と同じ人物とは思えない。
雨鈴はつい、吹き出した。
「……何だ。」
「いや。」
笑いをこらえながら首を振る。
「景辰でも、ああいう顔するんだなって。」
景辰は足を止め、じろりと睨んだ。
「どういう顔だ。」
「息子の顔。」
数秒の沈黙。
景辰でも、ああいう顔をする。
誰かの子どもである、ということだ。
景辰は、心底面倒そうに目を細めた。
「余計なことを覚えたな。」
「収穫でした。」
そう返すと、景辰は小さく鼻で笑った。
そのまま再び歩き出す背中は、いつもより少しだけ近く感じられた。
その背中を追いながら、雨鈴はふと思う。
景辰も、昔は誰も寄せつけなかった。
自分も、ずっと誰も寄せつけなかった。
同じだ。
でも今、この廊下を並んで歩いている。
それが、何だか悪くない気がした。




