第八十話:市井の目
「――木戸よ。」
景辰から兄の言葉を聞かされた時、雨鈴は、ほとんど考えずにそう言った。
「木戸?」
「都の市は、亥の刻で木戸が閉まる。閉まった後に通るには、木戸番に札を見せて、帳面に名を書かせるの。夜中に駕籠で人を運んだなら、必ずどこかの木戸を抜けてる。……番の帳面に、残ってるはずよ。」
景辰と高峻が、顔を見合わせた。
「……それは、刑部の調べでも、まず当たらぬ筋だな。」
「刑部の人は、木戸を通る時に札なんて見せないもの。」
雨鈴は、少しだけ得意げに言った。
「裏通りの子は、夜中に薬を買いに走って、木戸番に怒鳴られながら通してもらうの。……知ってるのは、そういう子だけ。」
翌日、雨鈴は東の裏通りに立っていた。
翠華と蒼真を連れ、装いは、できる限り質素に。
それでも、通りの人々は、すぐに気づいた。
「……あれ、占い屋の雨鈴ちゃんじゃないか?」
「嘘、皇子様のとこに行ったって。」
「なんだい、あんた。えらく上等な布を着てさ。」
声をかけてきたのは、向かいの団子屋の女将だった。
「ご無沙汰してます、おかみさん。」
「まったく、便りの一つも寄越さないで。……で、何の用だい。まさか占いに戻るんじゃないだろうね?」
「戻りません。……木戸番の爺さん、まだ西の三の木戸にいますか?」
女将の目が、すっと細くなった。
「……あんた、なんか面倒事に首を突っ込んでるね?」
「はい。」
「はい、じゃないよ。」
ため息を一つついて、女将は団子を三本、包んで押し付けた。
「持っていきな。あの爺さん、これに弱いんだ。」
西の三の木戸の番小屋は、記憶のままの、傾いだ小屋だった。
「――ああ?雨鈴か。お前、死んだんじゃなかったのか?」
「勝手に殺さないでください。」
団子を三本差し出すと、四半刻もかからなかった。
「九日前の夜?……あったあった。亥の刻過ぎに一つ。上等の駕籠で、担ぎ手が六人。札を見せて、こう名を書かせた。」
節くれだった指が、帳面の一行を指す。
雨鈴は、覗き込んだ。
――崔家。
胸の奥で、何かが、ことりと落ちた。
崔家。この都で、その名を知らぬ者はいない。大貴族。朝廷の重臣を代々出す家。
そして――第一皇子の正妃、秋霞様の御実家。
「……間違いありませんか。崔家、と。」
「間違えるもんか。あの家の札は、見りゃ分かる。それに」
爺さんは、声を落とした。
「駕籠の中から、女の泣き声がした。年寄りの女の。……気味が悪かったから、覚えてる。」
雨鈴は、目を閉じた。
あの女の、泣き声。
茶会の日、袖で目元を押さえていた芝居の涙ではなく。本当の。
宮に戻り、景辰に報せると、彼は長いこと、何も言わなかった。
「――崔家。」
やがて、その二文字だけを、口にした。
蓮池を挟んだ向こう。
第一皇子の宮で、その紋を見ない日はない家。
昊で戦を起こしたがった者。俺を失脚させたがった者。
あれを衆目の前で貶めた者。用済みの駒を消した者。
――別々の顔に見えるか、と兄は言った。
見えない。全部、一つの家だ。
「……なぜ?」
景辰は、拳を握った。
「なぜ、あの家が、それほどまでに、お前を?」
雨鈴には、答えられなかった。
自分でも、分からない。市井の女一人を、大貴族が、国境の向こうまで手を伸ばして潰しにかかる。
そこまでの理由が、私にあるのか。
(……押し付けられて、仕方なく)
(あの夫婦は、あれの親ではない)
二つの言葉が、頭の中で、ゆっくりと重なっていく。
私は、誰の子なのだろう。
「――殿下!」
戸が、乱暴に開いた。
蒼楽だった。息を切らし、顔から血の気が引いている。
「……見つかりました。」
「何が?」
「夫婦です。……都の南、川の下流に。二人とも。」
雨鈴の指先から、感覚が消えた。
「……二人とも?」
「はい。……死んでいました。」
部屋が、静まり返った。
分かっていた。用済みの駒が、どうなるか。分かっていて、それでも。
「それと、もう一つ。」
蒼楽の声が、低くなった。
「禁衛が、動いています。……訴え出た者があるそうです。」
「訴え?」
「――第三皇子の側室が、育ての親に衆目の前で恥をかかされ、それを恨んで、人を遣って始末させた、と。」
景辰が、立ち上がった。
「……昊の矢と、同じ手だ。」
低い声だった。
「自分で消した駒を、こちらの罪に着せる。」
雨鈴は、床を見つめていた。
憎んでいた二人が、私のせいで消され、そして今度は、その死が、私の罪にされる。
――遠くで、あの人の声が聞こえた気がした。
お帰りは、こちらで迎えてさしあげましょう。
これが、その出迎えの、二の膳だった。




