第七十九話:兄の答え
第二皇子の宮の門は、拍子抜けするほど、あっさりと開いた。
「お待ちしておりました、と主が。」
柏峰は、そう言って先に立った。
待っていた。来ると分かっていた。あの人らしい。
通されたのは、あの夜と同じ小さな部屋だった。
卓は一つ。膳はない。代わりに、茶が二つ。
「よく来たな、景辰。」
上座で、景明が言った。布はない。素顔のまま。
「掛けろ。……今日は、お前が話す番なのだろう?」
景辰は、座らなかった。
「――兄上。伺いたいことが二つあります。」
「申せ。」
「一つ。昊国の企ての糸を引いた文は、黎の宮中の御用紙で書かれていた。もっとも古い一通は、私が兄上の名代に立つと決まった直後の日付です。……あの時点でそれを知り得た者は、数えるほどしかいない。」
景明は、茶を一口含んだ。
「俺を疑っているのか?」
「疑うのが、道理です。」
「――ふむ。で、お前はどう思っている?」
景辰は、しばらく黙って、兄の顔を見ていた。
「……違う、と思っています。」
「ほう。」
「兄上は、あれが同行すると知った時、本気で止めた。止められぬと分かると、あの国で身を守る術を、一つ一つ教えた。……あの忠告がなければ、あれは宴の膳を口にしていた。一人で庭を歩いていた。」
雨鈴から聞いた。
宴の物を口にするな、人のいない場所へ一人で行くな、誰の親切も疑え、弟の傍を離れるな。
あの娘は、その全部を守った。
「あれを殺す絵図を描いた者が、あれの生きる術を教えるはずがない。」
景明は、初めて、笑った。
「……面白いな。疑うと言って、無実の証を並べに来たか。」
「順序です。兄上が糸の主でないなら――もう一つの問いが、意味を持つ。」
「二つ目を、聞こう。」
「兄上は、あれの生まれを探っている。白楊村を洗い、道中で出自を訊いて回り、昨日は夫婦を押さえようとした。……なぜです?」
「気になったからだ。」
「兄上。」
「……面白い娘だ、と言ったはずだ。面白いものの由来を知りたがるのは、人の性だろう。」
はぐらかしだ。分かっていて、景辰は引かなかった。
「兄上は、あれが誰の子か、知っているのですか?」
部屋が、静まり返った。
景明は、茶碗を置いた。
「――探っている。知っている、とは言っていない。」
「同じことです。」
「違う。……確かめ終えていないものを口にするほど、俺は軽くない。」
声が、低くなった。
「だが、一つだけ教えてやろう。……あの夫婦は、あれの親ではない。」
景辰の指が、動いた。
――押し付けられて、仕方なく。
あの男の言葉が、ここで形になった。
「では、誰が?」
「預けた者がいる。……誰かは、まだ言わん。」
「確かめ終えたら、言うのですか?」
「その時、考える。」
平然と、そう言った。
考える。つまり、言うかどうかを、この人が決める。
あの娘の生まれを、この人が握ったまま。
「――兄上。それは…」
「お前が怒るのも、道理だ。」
景明は、遮った。
「だが、考えてもみろ。あの娘の生まれが、もし市井の外にあったとして――それを口にした瞬間、何が起きる。あれは、占い師の雨鈴ではなくなる。……誰かの娘、として扱われる。その誰かが誰であるかで、あれの行く末は、お前の手を離れるぞ。」
景辰は、言葉に詰まった。
「確かめ終えてもいないものを言い、あれを駒にする気はない。……それだけだ。」
理屈は、正しかった。悔しいほどに。
「……夫婦を連れ去ったのは?」
「お前の探している者と、同じ手だろうな。」
あっさりと、景明は言った。
「昊で戦を起こしたがった者。お前を失脚させたがった者。あれを衆目の前で貶めた者。用済みの駒を消した者。……別々の顔に見えるか?」
「……いえ。」
「ならば、それだけ分かっていればいい。あとは、お前の仕事だ。」
「兄上は、その者を知っている。」
「さあ、知らんな。」
嘘だ、と景辰は思った。
思ったが、証はない。この人が言わぬと決めたものは、何を重ねても出てこない。
幼い頃から、それだけは変わらなかった。
「――一つ、教えておいてやる。」
立ち上がりかけた景辰の背に、景明が言った。
「夫婦を運んだのは、御家中の駕籠だそうだな。」
「……ええ。」
「御家中の駕籠は、紋を隠せん。担ぎ手の手配も、宿場の記録も残る。……市井の目を持つ娘が、お前の隣にいるのだろう?」
景辰は、振り返った。
兄は、茶碗を見つめたまま、こちらを見ていなかった。
「……ありがとうございます。」
「礼を言われる筋ではない。」
弟が去った部屋で、景明は、懐から油紙の包みを取り出した。
半分に割られた木の札。裏の焼き印。
あれを渡せば、弟は一晩で家に辿り着く。
そして、その先の真実にも。
――まだだ。
景明は、包みを懐に戻した。
確かめ終えていない、というのは嘘ではない。
だが、渡さぬ理由が、それだけでないことも、自分でよく分かっていた。
真実を出せば、あれは本当に弟のものになるかもしれない。
出さなければ、あれは、まだ誰のものでもない。
腰の布が、重かった。
「……渡すつもりはない。」
何を、とは、口にしなかった。




