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死を諦めた占い師は、皇子に目をつけられた  作者: ここば


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第七十八話:誰も見ていない夜

昊国から戻って、七日が過ぎていた。

その間、景辰は一度も、夜に雨鈴の部屋を訪れていなかった。

無理もない。昊国との盟の細目。賀昌の文の照合。刑部と御史台への説明。さらには、御前で願い出た「糸の主」の追及は、陛下の密命と絡み合って、景辰の手元に山のような仕事を落としてきた。

夜半まで灯りの消えない書房を、雨鈴は遠くから見ているしかなかった。


侍女たちが、また噂している。お渡りが途絶えた、と。

それは、いい。もう、慣れた。

――慣れないのは、夜だった。

灯りを落として、一人で牀に入る。

旅の間、毎朝あの腕の中で目を覚ましていた身体が、その温度を覚えていて、勝手に探してしまう。

そして、見つからない。


八日目の夜。

景辰は、卓の上の書きつけを、乱暴に一まとめにした。


「殿下、まだこちらの照合が――」


「明日だ。」


「は、しかし。」


「明日でも、誰も死なん。」


高峻は、一瞬だけ目を丸くして、それから、何も言わずに頭を下げた。

廊下を、足早に歩く。


今日夫婦が消えた。

あの娘は、あの部屋を見た瞬間から、何も言っていない。

何も言わない、ということが、どういうことか。ずっと引っかかっていた。


――コン、コン。


「……入るぞ。」


戸を開けると、雨鈴は牀の縁に座っていた。

薄い夜着一枚。解かれた髪。灯りは一つきり。

旅の間は、宿の粗末な寝間着だった。都に戻って、これだ。

景辰は、迷いのない足取りで衣桁へ向かい、上衣を一枚掴んで戻り、当たり前のように、その肩へ着せかけた。


「……久しぶりね、それ。」


「ああ。」


「まだやるんだ。」


「変ではないからな。」


雨鈴が、小さく笑った。笑ってから、その顔が、少しだけ崩れた。


「……大丈夫か?」


「大丈夫。」


早すぎる返事だった。

景辰は、卓の向かいではなく、牀の縁の、雨鈴の隣に腰を下ろした。

旅の前なら、絶対に選ばなかった場所だった。


「……七日、来られなかった。」


「知ってる。灯り、ずっと消えてなかったもの。」


「見ていたのか?」


「見てた。」


それきり、少し黙った。


「……ねえ、景辰。」


「何だ。」


「私、あの二人のこと、どう思えばいいのか、分からないの。」


声は、静かだった。


「石を投げられた時、あの人たちは止めなかった。家に閉じ込めて、外に出さなかった。恩を売りに来て、衆目の前で私を売った。……憎んでいい人たちだと思う。ずっと、そう思ってた。」


「ああ。」


「でも、消えたって聞いた時、胸が痛かったの。……変でしょう?憎んでいたのに。」


景辰は、すぐには答えなかった。


「……変ではない。」


「そう?」


「あの二人は、お前に何もしてやらなかった。だが、お前があの二人にしてやれることは、まだ幾つかあった。……銭を置いて出た時のように。それを取り上げられたのだ。痛むのは、当たり前だ。」


雨鈴は、上衣の襟を握った。


「……そっか。」


「お前が悪いのではない。あの二人を使い捨てたのは、別の誰かだ。」


「うん。」


「その誰かは、必ず、俺が。」


「うん。……分かってる。」


灯芯が、ぱち、と鳴った。


しばらく他愛のない話をして、景辰は立ち上がった。


「――休め。明日また来る。」


戸口へ向かう。

その袖が、後ろから、引かれた。


「……待って。」


振り返ると、雨鈴が袖の端を掴んでいた。掴んだまま、目を合わせずに言う。


「旅の間、ずっと一緒に寝てたんだから。……このまま、寝ていけば?」


景辰は、動けなかった。

一瞬、頭が真っ白になり、それから、無理やり理屈を組み立てた。

――寂しいのだ。

七日、一人で夜を過ごしていた上に、今日あの二人も失った。寂しく、人恋しくなっている、それだけのことだ。

そう思うことにした。そう思わなければ、ここに立っていられなかった。


「……分かった。」


雨鈴が、ほっとしたように、袖を離した。


灯りが落とされる。

雨鈴は、肩の上衣を、するりと脱いだ。

寝るためだ。それだけだ。

旅の宿でも、上衣を着たまま寝たことはない。

それだけの、はずだった。

牀に入り、旅の朝と同じように、腕の中に収まる。景辰の腕が、背に回る。


――違う。

違うと、すぐに分かった。

旅の宿では、互いに厚い寝間着を着ていた。

掛布も、二枚重ねていた。

今は、薄い夜着と、薄い単衣の、それだけ。

布一枚を隔てて、相手の体温が、驚くほど近くにある。心の臓の音が、聞こえる。

自分のか、相手のか、分からない。

景辰の身体が、一瞬、強張った。それから、ゆっくりと、力が抜けていった。


「寒くはないか?」


「寒くない。」


むしろ、熱いくらいだった。

雨鈴は、その胸元に額を寄せた。

温かい。旅の朝と同じ、あの温度。

けれど、あの時はいつも、誰かが戸を叩く前の、見せるための時間だった。

今は、誰も見ていない。

誰も見ていないのに、この人は、ここにいる。

――そう思った瞬間、目の奥から、勝手に何かがこぼれた。


「……っ」


泣くつもりなど、なかった。悲しくもなかった。

ただ、安心して、それだけで、涙が止まらなくなった。

景辰は、何も言わなかった。

何も訊かず、何も言わず、ただ、腕の力を少しだけ強めた。

そして、大きな手が、雨鈴の頭に載せられた。

ゆっくりと、髪を撫でる。

相変わらず不器用な手つきだった。

それでも、一度も、止まらなかった。

雨鈴が泣き止んで、そのまま眠りに落ちるまで。

そして、眠ってからも、ずっと。


翌朝。

翠華が戸を叩いた時、二人はきちんと真ん中にいた。

旅の間と、同じ形で。


「……あらあら。」


翠華は、嬉しそうな声を、今日ばかりは、少しだけ潜めた。

身支度を整えながら、景辰は言った。


「今日、兄上のところへ行く。」


「……うん。」


「帰りは、遅くなるかもしれん。だが、必ず来る。」


「うん。……待ってる。」


その日、第三皇子は、朝から一度も、眉間に皺を寄せなかった。


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