第七十七話:空いた部屋
宮へ戻る途中で、雨鈴はしばらく、口を利けなかった。
見届けたぞ、の五文字が、まだ耳の奥で鳴っている。
「……ねえ、景辰。」
「何だ?」
「私、とんでもないこと言っちゃったかな、御前で。」
「言ったな。」
景辰は、前を見たまま答えた。
「あの場で糸の主の追及を願い出た。……父上は面白がったが、面白がらぬ者もいる。今頃、青くなっている顔が、幾つかあるだろう。」
「……怖くなってきた。」
「今さらだ。」
口の端が、少しだけ上がっていた。それを見て、雨鈴も、少しだけ笑えた。
「――夫婦に、会う。」
笑いが消えたところで、景辰が言った。
「え……」
「あの二人は、都にいる。誰かの銭で動いた駒だ。駒に触れれば、指した手が分かる。」
雨鈴は、膝の上で指を組んだ。
顔も忘れます、と言って背を向けた。
あの言葉は、本気だった。二度と会わないと決めたのだ。
「……それと、もう一つ。」
景辰の声が、低くなった。
「押し付けられて、と、あの男は言った。誰に、いつ、預けられたのか。……あの男の口から、それを聞く。」
雨鈴は、顔を上げた。
白楊村を出る馬車の中で、この人はそう言った。
あの家に来る前の記憶は、と。あれからずっと、考え続けていたのだ。
私が考えないようにしていたことを。
「……分かった。行く。」
「無理はするな。」
「無理じゃない。……糸の主に繋がるなら、私の顔くらい、いくらでも貸すわ。」
同じ頃。第二皇子の宮。
四阿の卓に、小さな木の札が置かれていた。
半分に割られた割符。
景明は、それを裏返した。
焼き印の、家紋の片割れ。
――長いこと、動かなかった。
「……主。」
柏峰が、静かに声をかけた。
景明は答えず、割符を指で押さえたまま、目を閉じていた。
知っている紋だった。
知っていて、当然だった。
この宮で、その紋を見ない日はない。
やがて、景明は目を開けた。その顔には、何の表情もなかった。
柏峰が仕えて十年、初めて見る顔だった。
「……そういう、ことか。」
「主。」
「夫婦は、まだ都にいるな?」
「西市の外れの宿に。……ですが、昨日の茶会が流れました。あの家は、もう二人を用済みにしているかと。」
「押さえろ。生きたまま。」
景明は、立ち上がった。
「口を封じられる前にだ。……あの二人の口が、証になる。急げ。」
柏峰が去ると、景明は割符をもう一度、見た。
あの人を死なせた家。娘を捨てさせた家。
――その家の娘が、微笑みながら、この後宮の正妃の座に座っている。
西市の外れの宿は、昼から静まり返っていた。
「昨夜、遅くにございます。」
宿の主は、揉み手をしながら、しかし目には怯えを浮かべて言った。
「お迎えの駕籠が来まして。上等な、御家中の駕籠で。お二人とも、荷をまとめて、出て行かれました。……行き先は、私どもは何も。」
「迎えの者は、どんな?」
「黒っぽい衣の、物静かな……顔は、よくわかりません。」
蒼楽が、舌打ちした。
「一足、遅かったですね。」
部屋は、空だった。
飲みかけの酒。散らかった衣。急いで出た痕跡。
三日間、絹を着せられて祭り上げられた二人は、用が済んだ夜に、消えた。
雨鈴は、戸口に立ったまま、その部屋を見ていた。
憎んでいた。恐れていた。顔も忘れると言った。
それでも――この部屋の空虚さは、胸のどこかに、冷たく落ちた。
(……用済みになったら、消される)
誰かの駒として使われて、捨てられた。私を苦しめた二人が、私のせいで。
「……雨鈴様。」
翠華が、そっと肩に手を置いた。
宿を出たところで、蒼真が足を止めた。
「殿下。」
路地の向こうに、見覚えのある影があった。
物静かな男が、宿の裏手から出てくるところだった。
景辰たちを見つけて、その足が止まる。
――柏峰。
互いに、しばらく無言だった。
「……兄上の指図か。」
「は。」
柏峰は、隠しもせずに頭を下げた。
「夫婦を押さえよ、と。……我らも、一足遅うございました。」
景辰の目が、鋭くなった。
「兄上が、あの夫婦を、なぜ?」
柏峰は、答えなかった。答えないことが、答えだった。
「……白楊村で、生まれを探ったのも。旅の間、あれの出自を訊いて回ったのも。全部、兄上の――」
「私からは、何も申し上げられませぬ。」
深く一礼して、柏峰は路地の奥へ消えていった。
残された景辰は、拳を握りしめていた。
兄上は、何かを知っている。
雨鈴の生まれについて、俺の知らない何かを。
それを、俺に隠したまま、先に手を伸ばしている。
「……景辰?」
雨鈴が、心配そうにこちらを見ている。
この娘は、まだ何も知らない。自分が誰の子かも、誰に狙われているのかも。
そして兄上は、それを知っていて、黙っている。
「――兄上に、会う。」
景辰は、低く言った。
「今度は、こちらから。」




