第七十六話:親書
謁見の間は、茶会の庭とは、空気の重さが違った。
磨き抜かれた床。居並ぶ重臣。
玉座までの、気の遠くなるような距離。
雨鈴は、景辰の斜め後ろを、教わった歩幅で進んだ。
茶会を中座してきたままの装いで、髪を直す間もなかった。それでも、背筋だけは伸ばした。
――第二皇子の姿は、なかった。
列の中に、その席だけが空いている。
こんな時に、と誰かが囁くのが聞こえた。
雨鈴は、なぜか少しだけ、息がしやすくなった気がした。
第一皇子・景恒の姿は、あった。遠目にも、その顔色は優れなかった。
「――昊国正使、御前に。」
衣擦れの音。異国の礼服。使節の長が進み出て、恭しく、漆塗りの文箱を掲げた。
「我が主、昊王の名代として、王女玲琅殿下の親書を奉呈つかまつります。」
親書は、朗々と読み上げられた。
両国の和平。先の式典での企ての顛末。
両国の膿を両国で追うという盟。そして――。
「――『此度、わたくしの命を救いしは、黎国第三皇子が側室・蘇雨鈴殿にございます』」
広間が、ざわりと揺れた。
「『放たれる矢よりも早く、その声はわたくしに届きました。この方の目と声なくば、わたくしは今、この文を書いておりませぬ。両国の和は、貴国の一人の女性の勇によって守られました。昊国第一王女、玲琅、ここに深く謝し、この名を両国の歴史に留めんことを願うものにございます』」
雨鈴は、床を見つめたまま、動けなかった。
さきほどまで、この城で自分の名は「不幸を呼ぶ子」と囁かれていた。
それが今、異国の王女の筆で、まるで違う形で読み上げられている。
――貸しは忘れないでちょうだいね。いつか、うんと大きな形で返すわ。
(……大きすぎるわよ、玲琅様)
目の奥が、熱くなった。
「――面を上げよ。」
玉座から、声が降った。
玄淵は、脇息にゆったりと身を預けて、こちらを見下ろしていた。
あの茶室の時と同じ、底の見えない目で。
「蘇雨鈴。」
「はい」
「後宮では近頃、面白い噂を聞くぞ。……西の村の、不幸を呼ぶ女が紛れ込んでおる、とな。」
広間の空気が、凍った。
重臣たちが、ちらちらと視線を交わす。
陛下御自らそれに触れるのか、という驚きと、末席の側室がどう答えるのか、という好奇と。
雨鈴は、息を一つ、整えた。
型どおりの答えなら、ある。恐れながら根も葉もなき噂にて――。
――型はよい。お前の言葉で申せ。
あの茶室で言われたことを、この人が忘れているはずがない。これは、二度目の試しだ。
「……はい。私のことにございます。」
ざわ、と広間が鳴った。
「村で、そう呼ばれておりました。この後宮で同じ噂が立つのも、無理からぬことと存じます。」
「ほう。認めるか。」
「呼び名は、認めます。……ですが陛下。不幸は、呼ばずとも、勝手に参るものにございます。」
雨鈴は、顔を上げた。
「市で商いをしておりました頃から、嫌というほど見て参りました。不幸は誰の戸も叩きます。呼ばれて来るほど、律儀ではございません。……私にできましたのは、戸を叩かれる前に、気をつけてと申し上げることだけ。それを疎んじる方には疎んじられ、聞いてくださった方には――此度のように、王女殿下のように、聞いてくださった方の明日は、変わりましてございます。」
玄淵は、しばらく黙っていた。
それから、ふ、と口の端を歪めた。
「……朕は言うたな。使い手の腕を、見届けてやる、と。」
「……はい。」
「――見届けたぞ。」
短い、たった五文字だった。
それだけで、広間の潮目が、音を立てて変わった。
陛下が、認めた。あの一言の重さを測れない者は、この広間には一人もいない。
「褒美を取らす。……望みを申せ。」
来た。
広間中の耳が、こちらを向くのが分かった。
位か。宝物か。一族の栄達か。末席の側室が何をねだるのか、と。
「……では、恐れながら。」
雨鈴は、深く頭を下げた。
「褒美は、しばし、お預けくださいませ。」
「……ほう?」
「此度の企ての糸を引いた者は、いまだ捕らえられておりませぬ。私どもの働きは、道半ばにございます。……糸の主が明るみに出て、両国の道が真に晴れましたその日に、改めて頂戴しとう存じます。」
沈黙が、落ちた。
それが何を意味するか、分からぬ者はいなかった。
末席の側室が、御前で、いずれかの高みに潜む「糸の主」への追及を、公に願い出たのだ。
玄淵の目が、すう、と細くなった。
「……欲のないことを言いおるかと思えば」
喉の奥で、低く笑う。
「――この広間で、いちばん高いものを、ねだりおったな。」
「……恐れ入ります。」
「よかろう。預けておけ。利子をつけて取らせてやる。」
最後に、正使が進み出て、もう一つの箱を捧げた。
「――こちらは、盟の定めに関わる検めの品。御手ずから御披見を、と我が王女より。」
小ぶりの、封をされた文箱だった。
玄淵は内侍にそれを開けさせ、中の書きつけに、目を通した。
一枚。二枚。
広間は静まり返ったまま、誰もが玉座の顔色を窺っていた。
読み終えた玄淵は、書きつけを箱に戻させた。表情は、動かなかった。
動かないまま、ただ一言、落とした。
「……面白うない。」
初めて聞く言葉だった。
この方の「面白い」が褒美なら、これは。
玄淵は内侍を手招き、囁くほどの声で、何かを短く命じた。内侍の顔色が、変わった。
「――大儀であった。下がってよい。」
散会の声とともに、広間が動き出す。重臣たちの囁きが、さざ波のように広がっていった。
人の絶えた謁見の間で、玄淵は一人、脇息に頬杖をついていた。
視線の先には、末席の側室が額づいていた床がある。
不幸は、呼ばずとも参る。
できるのは、戸を叩かれる前に告げることだけ。
――昔。まったく同じことを、この宮で言った女がいた。
玄淵は、目を閉じた。
「……血は、争えぬものよな。」
呟きは、誰もいない広間に、静かに溶けた。




