第七十五話:晴れ姿
茶会の日は、忌々しいほどの快晴だった。
第一皇子の宮の庭は、後宮中の妃嬪と側室で埋まっていた。
妃嬪の方々、各宮の側室、その侍女たち。
これほどの人数を三日で集められること自体が、正妃という座の力を語っていた。
上座に、秋霞。
春の花を写したような衣に、たおやかな微笑み。
雨鈴を見つけると、わざわざ立ち上がって迎えた。
「まあ、雨鈴さん。遠路のお戻り、本当にようございました。……お痩せになったのではなくて?」
「お心遣い、痛み入ります。」
膝を折る。指先が、冷たい。
この人の前に立つと、いつもこうだ。
「さ、こちらへ。今日はあなたが主役ですもの。」
案内されたのは、末席ではなかった。
庭のちょうど中央、四方から見える場所。
――さらし台だ、と雨鈴は思った。
茶が回り、菓子が配られ、他愛のない歓談が続いた。
誰もが、待っていた。何が起きるかを、皆が知っている顔だった。
「――そうそう。今日は、雨鈴さんに嬉しい引き合わせがございますの。」
秋霞が、頃合いを見て、扇を鳴らした。
「遠く西の村より、雨鈴様の御両親をお招きしております。……娘御の晴れ姿を、ひと目見たいと仰せでしたので。」
庭の入口から、二人が現れた。
真新しい絹の衣。結い直された髪。
三年前と、白楊村の土間と、まるで違う身なりで。
けれど、顔は変わらなかった。
「あ、あ……雨鈴……!」
女の方が、袖で目元を押さえた。芝居がかっているが、涙は本物に見えるだろう。
「まあ、こんなにご立派になられて……! 母さんは、ずっと、ずっと会いたくて。」
「よくぞ、ご無事で。」
男が、地面に額をこすりつけた。
庭中の視線が、その二人と、雨鈴の顔とを、忙しなく行き来している。
雨鈴は、動かなかった。
膝の上で手を重ねたまま、ただ、二人を見ていた。
「……雨鈴さん?」
秋霞が、小首を傾げた。
「御両親ですのに、ご挨拶もなさらないの? ……ああ、旅のお疲れかしら。それとも」
声は、どこまでも優しかった。
「……都のお暮らしが長くなると、田舎の親御さんは、恥ずかしくおなりになる?」
庭の空気が、さざめいた。
罠は、完成していた。
挨拶をすれば「不幸を呼ぶ子」の生まれを認めることになる。しなければ、親を恥じる薄情者になる。
――そして、男が口を開いた。
「いえ、いえ。この子を責めないでやってください。……この子は、昔から少し、変わった子でしたので。」
来た。
「幼い頃から、当てるんでございますよ。牛が病む、子が池に落ちる、と。……その通りになる。村の者は皆、気味悪がりまして。『不幸を呼ぶ子』と。」
どよめきが、庭を走った。
噂は既に回っていた。
けれど、実の親の口から語られれば、それは噂ではなく、事実になる。
「まあ、恐ろしい。」
「……では、あの噂は本当だったの?」
扇の陰で、無数の囁きが交わされる。
玉蓉が、遠くの席で身を乗り出しかけた。
言ってやりたいことは、山ほどあるのだろう。
ざまを見ろ、と。市井の女が、と。
――けれど、彼女は口をつぐんだ。
詩会で恥をかき、輿入れの日には茶器を鳴らして悔しがった。この娘に、玉蓉は一度も勝てていない。
だからこそ、分かるのだ。
(……この流れ、おかしいわ。)
村の親が、なぜ都にいる。
誰が呼んだ。誰が絹を着せた。
あの女に恥をかかせるなら、自分の手でやりたい。
誰かの手駒として笑うのは――たとえ相手が憎い女でも、まっぴらだった。
玉蓉は扇を閉じ、つん、と顔を背けた。
雨鈴は、静かに立ち上がった。
庭が、しんとなる。
「――お答えします。」
声は、震えなかった。
「その話は、本当です。」
どよめきが、一段大きくなった。
景辰の側に控えていた翠華が、思わず一歩前に出かけて、蒼真に止められている。
「私は幼い頃、村の牛が病むと言いました。子どもが池に落ちると言いました。……その通りになりました。」
雨鈴は、庭を見渡した。
「けれど、皆さま。よくお考えください。――池に落ちると言われた子は、どうなったと思われますか?」
誰も、答えない。
「助かりました。母親が慌てて池に近づけなかったからです。」
息を、継ぐ。
「牛は、死にました。誰も、私の言うことを信じなかったからです。」
庭が、静まり返っていた。
「私が言ったから、不幸が起きたのではありません。……起きると言ったのに、聞いてもらえなかった。それだけのことです。」
視線を、父へ向けた。
男の顔から、芝居の色が抜けて、気まずげに逸らされた。
「不幸を呼ぶ子と呼ばれたのは、本当です。石を投げられたのも、本当です。……私は、それを恥だと思っていました。ずっと。」
言葉を、切る。
「でも、今は思いません。誰かの明日を案じて口にしたことを、恥じる必要が、どこにありますか?」
――誰も、言葉を返せなかった。
「……見事なお答えですこと。」
沈黙を破ったのは、秋霞だった。
微笑みは、少しも崩れていない。
「ですが雨鈴さん。それでは、こう申す者も出ましょう。……あなたには、人ならぬ何かが視えているのではないか、と。後宮に、そういう方をお迎えしているのは…」
――来た。
ここが本命だ。この人は、私を「妖しの女」にしたいのだ。
雨鈴が口を開きかけた、その時。
「――恐れながら、姉上様。」
澄んだ声が、庭を横切った。
側室の列から、一人が静かに立ち上がっていた。
紫蘭だった。
庭が、ざわりと揺れる。正妃に物申したのが、同じ宮の側室――しかも、第一皇子がただ一人寵愛する女だったからだ。
「紫蘭さん。……どうかなさって?」
「差し出口を、お許しください。」
紫蘭は、深く礼をした。
礼の形は完璧で、そこに一分の隙もなかった。
「ですが、『人ならぬ何か』とは、あまりに重うございます。……その一言は、人ひとりの命を絶つ言葉にございますれば。」
「あら。わたくしは、そう申す者も出ましょう、と申しただけよ。」
「ええ。ですから、その者に、あらかじめお答えしておきたいのです。」
紫蘭は、顔を上げた。
「昨年の詩会で、わたくしの席に毒が入りました。皆さま、覚えておいででしょう。」
庭が、静まり返った。
「あの時、この後宮の誰もが、わたくしを疑いました。主催の席、わたくしの菓子。……疑って、当然にございます。」
紫蘭の声は、震えなかった。
「ですが、後になって、人づてに伺いました。……ただ一人だけ、初めからわたくしを疑わなかった方がおられた、と。」
視線が、雨鈴に集まる。
「その方の皿に、毒は置かれておりました。狙われたのは、その方ご自身。身代わりに口をつけた侍女が、生死の境をさまよったのです。」
紫蘭の声が、わずかに揺れた。
「大切な侍女が倒れ、ご自身も殺されかけて。……それでも、わたくしは違うと、そう仰ってくださったそうにございます。わたくしのいない場所で。庇ったところで、何一つ得になどならぬ場所で。」
「……紫蘭様。」
「人ならぬ何かが視える方が、そのようなことを、なさいますか?」
紫蘭は、まっすぐに秋霞を見た。
「妖しの術を使う女なら、あの時、黙って笑っていればよろしかった。憎い相手が濡れ衣で沈むのを、指をくわえて見ていればよかったのです。……それをなさらなかった方を、わたくしは、そのようにはお呼びできませぬ。」
庭の空気が、はっきりと変わった。
妃嬪の一人が、ゆっくりと頷いた。
別の側室が、扇を下ろした。
潮目が、動いた瞬間だった。
――そして雨鈴は、こみ上げるものを、ぐっと堪えた。
あの時、助けたことを、この人はずっと覚えていてくれたのだ。
「……ありがとう、紫蘭様。」
「いいえ。」
紫蘭は、席に戻りながら、ほんの小さく囁いた。
「……お返しが遅くなりました。」
「――紫蘭さん。」
秋霞の声が、初めて、ほんのわずかに硬くなった。
「あなた、ずいぶんと雄弁におなりね。……殿下のご寵愛が篤いと、口も軽くなるのかしら?」
凍りつくような一言だった。
正妃が、側室の寵愛に触れた。この庭にいる全員が、その意味を理解した。
「……恐れ入ります。」
紫蘭は、静かに頭を下げた。下げただけで、退かなかった。
二人の間に、目に見えない刃が交わされている。
その時。
「――失礼いたします!」
庭の入口から、宦官が駆け込んできた。
「陛下の御前より、火急の使いにございます。……昊国よりの使節が、王宮に到着いたしました。」
庭が、ざわめいた。
「使節は、王女殿下の親書を携えておられます。……陛下は、その場に、第三皇子殿下と、御側室・蘇雨鈴様のご臨席を求めておられます。」
――蘇雨鈴様の。
名指しだった。この国の頂点が、名指しで、末席の側室を呼んでいる。
庭中の視線が、雨鈴に集まった。今度は、まったく別の色をして。
「……まあ。」
秋霞は、微笑んだままだった。
微笑んだまま、その扇を持つ指が、白くなっていた。
「陛下のお召しですもの。……お行きなさいませ、雨鈴さん。」
「――失礼いたします。」
雨鈴は礼をして、身を翻した。
その脇を通り過ぎる、一瞬。
秋霞の唇が、雨鈴にだけ聞こえる声で、動いた。
「……本当に、よく似ていらっしゃること。」
足が、止まりかけた。
「え……?」
「いいえ、なんでも。」
正妃は、たおやかに微笑んでいた。
庭を出るまで、雨鈴はその言葉の意味を、掴みかねていた。
――似ている? 誰に?




