第七十四話:出迎え
帰りの道は、行きより早かった。
橋は架け直され、峠は晴れ、あとはただ、東へ走るだけだった。
最後の宿の朝、雨鈴はいつものように、腕の中で目を覚ました。
毎朝の、見せるための抱擁。
始まりは芝居で、続けたのは理屈で。
それがいつの間にか、旅の朝の当たり前になっていた。
「……ねえ。」
「何だ?」
「明日には、都に着くのよね?」
「ああ。」
「じゃあ……」
これも、今日で終わり?と問いかけて、思わず口をつぐむ。
景辰は、しばらく黙って続きを待っていた。
「ううん、なんでもない。」
「……そうか。」
それだけ言って、腕は、ほどかれなかった。
翠華が戸を叩くまで、どちらも、それ以上は何も言わなかった。
都の門をくぐったのは、翌日の昼だった。
見慣れた甍。見慣れた雑踏。
ひと月ぶりの都は、何も変わっていないように見えた。
――見えた、だけだった。
宮に戻るなり、蘭月からの使いが待っていた。
旅装も解かぬまま、二人は麗妃の宮へ急いだ。
「お帰りなさい。西でのこと、聞いているわ。……よくやったわね、二人とも!」
蘭月は、ねぎらいの言葉もそこそこに、扇を畳んだ。
「時がないから、手短に言うわ。――妙な噂が、後宮を回り始めているの。三日ほど前からよ。」
「噂?」
「雨鈴ちゃん、あなたのことよ。」
扇の先が、まっすぐにこちらを向いた。
「――三皇子の側室は、西の村から逃げ出した娘だ。村では『不幸を呼ぶ子』と呼ばれていた。あの娘が口を開くと、悪いことが起こる。気味の悪い目をした娘だ、と。」
部屋の空気が、凍った。
雨鈴は、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
不幸を呼ぶ子。
三年かけて逃げて、輿入れして、やっと置いてきたはずの言葉が、先回りして、この城で待っていた。
「……出所は?」
景辰の声が、低い。
「分からないの。それが、嫌らしいところでね。誰かが言い出した、というより、気がついたら皆が知っていた。……手馴れた撒き方よ。」
「村の名は、噂に出ていますか?」
高峻が、鋭く尋ねた。
「出ているわ。白楊村、と。」
――白楊村。
あの村の名を知る者は、限られている。道中の一行と、そして。
(……あの夜、家を見張っていた、誰か)
雨鈴の背筋を、冷たいものが走った。
宮に戻ると、蒼楽が調べに走り、夕刻には戻ってきた。その顔から、いつもの軽さが消えていた。
「……いました。」
「誰が?」
「あの夫婦です。白楊村の。……都に、来ています。」
雨鈴は、目の前が、すっと暗くなった気がした。
「西市の外れの宿に、十日ほど前から。部屋は上等、飯は三度、酒つき。……あの二人に、払える宿じゃありません。誰かが、銭を出しています。」
「十日前……」
高峻が、指を折った。
「我らが昊の王都に着いた頃です。……つまり、こちらの動きとは関わりなく、前々から呼び寄せられていた。」
「噂の種は、あの二人の口か?」
「でしょうね。宿で酒が入ると、聞かれてもいないのに喋っているそうです。――育ててやった娘が、恩も忘れて偉くなった、と。」
景辰の拳が、卓の上で固く握られた。
「……絵図を描いた者がいる。夫婦を運び、銭を与え、噂を撒かせ、我らの帰りに合わせて膳を整えた。……ご丁寧な、出迎えだ。」
そして、翌朝。
その招きは、何食わぬ顔で届いた。
白い上等な紙に、香が焚きしめてある。
差出人は、第一皇子の正妃・秋霞。
翠華が読み上げる声が、途中から強張った。
「――『遠路のお戻り、心よりお喜び申し上げます。つきましては、旅の労いに、ささやかな茶会を催しとう存じます。後宮の皆さまにも、お声がけを』……そして」
「そして?」
「……『当日は、雨鈴様に、嬉しい引き合わせも用意してございます。遠くからおいでになった、雨鈴様の御両親にも、ぜひ娘御の晴れ姿を』」
部屋が、静まり返った。
御両親。
あの二人を、後宮の衆目の前に、引き出すつもりなのだ。
雨鈴は、文の白さを、ただ見つめていた。
認めれば、「不幸を呼ぶ子」の物語が、私の生まれとして固まる。
拒めば、育ての親を捨てた薄情者になる。
泣いても、怒っても、負け。
この茶会の席に、勝ち筋は、一つも用意されていない。
「……景辰。」
「ああ。」
「これ、断れないやつだよね?」
「……ああ。兄上の、しかも正妃の招きだからな。」
いつかの夜と、同じ言葉だった。側室は、招きを断れない。
けれど、あの頃と違うものが、一つだけある。
雨鈴は、文から顔を上げた。その目に、もう怯えはなかった。
「――行く。受けて立つわ。」




