第七十三話:東へ
出立の朝、王都の門前は、来た時とは別の景色だった。
見送りの列の先頭に、玲琅がいた。
その三歩後ろに、腕を吊った陸青。傷はまだ癒えきっていないのに、鎧だけは正しく着込んでいる。
「文を書くわ。」
玲琅は、雨鈴の両手を取った。
「国と国の文じゃなくて、わたくしとあなたの文よ。……返事が遅かったら、怒るから。」
「はい。……必ず。」
「それと、貸しは忘れないでちょうだいね。わたくしの命、あなたの声が救ったのよ。……いつか、うんと大きな形で返すわ。」
王女は、それから景辰へ向き直り、完璧な礼をした。
「殿下。……この度の御縁、忘れませぬ。」
「こちらこそ。……良き隣人を得た。」
縁談は流れた。けれど、縁は結ばれた。
妙な話だが、誰の顔にも、それを惜しむ色はなかった。
国境までは、韓鉄が自ら選んだ護衛が付いた。
「わしの顔に免じて、道中は誰にも指一本触れさせん」という、豪快すぎる餞別だった。
帰りの馬車は、行きよりも静かだった。
片付いたものと、片付いていないもの。その仕分けを、誰もが頭の中でしていた。
「……ひと月半前。」
景辰が、ぽつりと言った。
「代役の件を、あの時点で知り得た者。兄上と、その側近。父上と、母上。俺と、この場の身内。……あとは、あの夜の話が漏れ得る、宮の最奥だけだ。」
「うん。」
「賀昌は、手の届くほど近くだと言った。……あれが強がりでないなら、敵は、俺が名を知っている誰かだ。」
雨鈴は、膝の上で指を組んだ。
顔を知っている誰か、なら、私が視れる。
でも、誰を視ればいいのか、それがまだ絞れない。
闇雲に撃てば、毒の一件の二の舞になる。
「……焦るな。」
考えを読んだように、景辰が言った。
「的は、必ず絞れる。都に戻れば、調べられることが山ほどある。……それまで、矢は温存だ。」
「うん。」
頷いてから、雨鈴は、ふと気づいた。
景辰が、窓の外を見たまま、何かを考え込んでいる。眉間の皺が、いつもの政の顔とは、少し違う。
「……どうしたの?」
「いや。……白楊村の、あの男の言葉だ。」
どき、と心の臓が跳ねた。
「押し付けられて、仕方なく――あの男は、そう言いかけた。あの時は、ただの罵りだと聞き流した。だが…」
景辰の目が、こちらを向いた。
「押し付けられて、とは、誰かから預かった、という意味にも取れる。……お前、あの家に来る前の記憶は?」
「……ない。物心ついた時には、あの家にいたから。」
「そうか。」
景辰は、それ以上は言わなかった。言わなかったが、その横顔が、考えることをやめていないのは分かった。
雨鈴の胸の奥で、何かが、ざわりと動いた。
考えたことも、なかった。あの家の子でなかったかもしれない、なんて。
同じ頃。白楊村。
村外れの古い家の土間で、柏峰の手の者が二人、あの夫婦と向き合っていた。
卓の上には、銀の粒が、小さな山を作っている。
「……だ、だからよ。何度も言わせるなって。」
男は、銀と使者の顔を、忙しなく見比べながら喋っていた。
「あの子を連れてきたのは、十五年も前だ。都から来た、商人風の男よ。上物の衣を着てたが、目つきは商人のもんじゃなかったね。……養育の礼だと言って、銭は年に二度、必ず届いた。運んでくるのは、いつも同じ男だ。」
「名は?」
「知らねえよ。名乗らねえもの。こっちも聞かねえ。……聞いちゃいけねえ銭だってことくらい、分かってらあ。」
女の方が、ちらちらと夫を見ている。何かを言いたげで、言えずにいる。
使者の一人が、銀の山に、さらにひと掴み足した。
「……あんた。」
「……ちっ。おい、あれを持ってこい。」
女が奥から持ってきたのは、油紙に包まれた、小さく平たいものだった。
解くと、中から出てきたのは――木の札。半分に割られた、割符だった。
「三年前だ。あの子が消えて、銭が止まると思った。……だが、その年も男は来た。娘が逃げたと言ったら、男は少しも慌てず、これを寄越して、こう言ったよ。『娘が戻るか、見つかったら、これを持って都の西市の質屋へ報せろ。悪いようにはせん』とな。」
「……報せたのか?」
「報せるかよ、薄気味悪い。だが、捨てもしなかった。……いつか銭になるかと思ってな。」
男は、下卑た笑いを浮かべた。
使者は割符を検め、裏を返した。
小さく、焼き印が押されていた。何かの家紋の、片割れ。
二人の使者は目を見交わし、銀の山を卓に残して、立ち上がった。
その夜。
村外れの家を、闇の中から見つめる目が、あった。
柏峰の手の者では、ない。
目は、家の灯りが消えるまで動かず、消えてからも、長いこと、そこにあった。
さらに同じ頃。都、第一皇子の宮。
秋霞は、灯りの下で、届いたばかりの文を読んでいた。
読み終えると、それを灯りの火に、静かにかざした。紙が、音もなく燃えていく。
「……西は、しくじったのね。」
声には、怒りも、焦りもなかった。
燃え尽きた灰を香炉に落とし、正妃は、たおやかに微笑んだ。
誰も見ていない部屋で、誰にも見せない微笑みを。
「遠くでやろうとするから、こうなるのね。……いいわ。」
窓の外、東の空の下に、帰ってくる者たちがいる。
「――お帰りは、こちらで迎えてさしあげましょう。」




