第七十二話:七通の文
夜が明けても、迎賓の宮の灯りは消えなかった。
卓の上に、七通の文が広げられている。
景辰、高峻、玲琅。三人がかりで、一晩かけて読み解いた。
「……宛名も署名もない。名を書かず、符丁で回す。手馴れた書き方です。」
高峻が、目の下に隈を作ったまま言った。
「ですが、中身は読めます。式典の手筈。矢の受け渡しの段取り。事が成った後、韓鉄将軍を焚きつけて黎の一行を捕らえさせる筋書き。……金の流れは、万家を通しています。」
「つまり、賀昌は指図を受ける側だ。」
景辰が、文の一通を指で押さえた。
「書き手が、主。……そして、この料紙。」
「ええ。黎の宮中の御用紙。……ふざけた話よね。うちの将軍を操る糸が、おたくの宮中から伸びていたなんて。」
玲琅の声には、疲れよりも怒りが濃かった。
「もう一つ、厄介なことがあります。」
高峻が、七通のうち、最も紙の焼けた一通を取り上げた。
「墨の枯れ具合と、紙の焼け方からして……この文だけ、古い。おそらく、ひと月半は前のものです。」
「ひと月半……?」
雨鈴は、思わず声を上げた。
ひと月半前といえば、まだ都にいた頃だ。輿入れから間もなく、旅の話など、影も形もなかった――いや。
「……殿下。我らが昊へ発つと決まったのは、いつでしたか?」
「……ひと月と、少し前だ。」
部屋が、静まり返った。
「この文には、こうあります。『三皇子、名代として来ること相成るべし。手筈、変わらず』……つまり。」
高峻の声が、低くなった。
「書き手は、代役の件が公になるより前に、それを知っていた。……殿下が兄君の名代に立つと、決まったその直後に。」
雨鈴の背筋を、冷たいものが走った。
あの取引を知る者は、数えるほどしかいない。
景明と、その側近。景辰と、この場の身内。
……それから、あの夜の話が届き得る範囲の、宮中のごく奥。
敵は、そこにいる。
賀昌の尋問は、成果と、不気味さを半分ずつ残した。
男は、万家の関与も、矢の手配も、あっさりと認めた。
認めた上で、文の主については、一言も語らなかった。
「知らぬ、とは申しません。……申し上げぬ、だけで。」
格子の向こうで、男は、あの温度のない笑顔にすら戻っていた。
「私の口から出れば、それは私の言葉。誰も信じますまい。……文の主は、ご自分でお探しなさい、皇子殿下。」
そして、去り際の景辰の背に、賀昌は静かに言った。
「――ひとつだけ、忠告を。その糸を辿るのは、お覚悟なさることだ。」
「……何?」
「糸の先は、あなたの近くで結ばれておりますぞ。存外――手の届くほど、お近くで。」
それきり、男は目を閉じて、二度と開かなかった。
王の裁定は、迅速だった。
賀昌は官位を剥がれ、獄へ。
万家は財を検められ、国境の商いを差し止め。
足場に紛れた残りの者たちにも、追っ手がかかった。
そして、思いがけない客が、迎賓の宮に現れた。
「――邪魔をする。」
大将軍・韓鉄だった。供も連れず、一人で。
のしのしと入ってくるなり、男は景辰の前で、拳を床に突いた。
「……疑った。この通りだ。」
「将軍。」
「わしは、担がれた。あの場で吠えれば吠えるほど、奴らの筋書き通りだったと聞いた。……武人が、戦を欺きの道具にされた。これほどの恥はない。」
顔を上げた男の目は、血走っていた。
「文の主とやらを、必ず炙り出せ。……そちらの国の膿だろうと、知ったことか。次に同じ手を使わせぬためだ。わしにできることがあれば、言え。」
嵐のように来て、嵐のように帰っていった。
「……あの人、敵じゃなくてよかったわね。」
「まったくだ。」
縁談の話は、一度、棚に上げられた。
王宮を騒がせた大事の後始末が先である、という王の意向だった。
代わりに、両国の間には、別の約定が結ばれることになった。
互いの国の膿――戦を欲する者らを、両国で追う、という盟だ。
「婚姻より、よほど固い結び方だと思わない?」
玲琅は、そう言って笑った。
「共通の敵ほど、国と国を近づけるものはないもの。」
「……玲琅様が王女で、本当によかったです。」
「あら、今頃気づいたの?」
帰り支度の合間、王女は雨鈴の手を取った。
「都へ戻ったら、気をつけなさい。文の主は、あなたたちの帰りを待ち構えているわ。……それから、これ。」
握らされたのは、小さな佩玉だった。
「わたくしの印よ。昊の関で、これを見せれば必ず通れる。……いつか、逃げ場が要る日が来たら、西へいらっしゃい。」
同じ頃。
遥か東の都では、第二皇子の宮に、一通の報せが届いていた。
白楊村からの、柏峰の書きつけ。
景明は、庭の四阿で、それを開いた。
――当村にて三年前まで居住。育ての親と称する男女あり。村での評判、芳しからず。
曰く、「よく当たる」「不幸を呼ぶ子」。幼少より、先の出来事を言い当てること度々。
読み終えても、景明は、長いこと動かなかった。
風が、庭の梅の葉を揺らした。
――やはり。
驚きは、なかった。ただ、長く握りしめていたものが、ようやく形を持った。それだけだった。
弟が市井から占い師を連れ込んだと聞いた日のことを、まだ覚えている。
名を聞いて、耳を疑った。十年以上、探し続けていた名だった。
確かめに行った廊下で、その娘は、警戒しきった目でこちらを見上げた。
あの時、息が止まったのだ。
目元が、似ていた。よく似ていた。……この俺を庇って死んだ、あの女に。
名が合う。年頃が合う。占いをする。そして、あの面影。
それだけあれば、十分だった。
だから隣国での縁組みなど、その日から要らなくなった。もう、探す必要がないのだから。
――だが。
景明は、書きつけの一行を、指でなぞった。
「育ての親と称する男女」
似ている、では証にならぬ。占いをする、でも足りぬ。
あの娘があの人の娘だと、朝廷に、陛下に、そして誰より本人に示すには、道筋が要る。
誰が、いつ、あの村へ運んだのか。誰の指図で、あの娘は名も知らぬ夫婦に押し付けられたのか。
その名が出れば――あの人を死なせ、娘を捨てさせた者の名も、出る。
「柏峰の手の者は、まだ村に?」
「は。二名、残しております。」
「白楊村を、洗い直せ。」
声は、静かだった。静かすぎた。
「あの娘が、いつ、誰の手で、あの村に預けられたのか。……三年前より前を、全て。銭の出所も、口を利いた者も、一人残らずだ。」
使いが下がると、四阿には、景明だけが残った。
男は、腰の布を抜いた。志遠、と拙い針目の入った、あの布を。
それを見つめたまま、誰にも聞こえない声で、呟いた。
「……もう少しだけ、待っていろ。」




