第七十一話:丑の刻
玲琅の動きは、速かった。
夕刻には父王への目通りを済ませ、夜には手勢が整っていた。
「父上の許しは、取ってあるわ。……陸青の証言と引き換えにね。表向きは、王女付きの兵の夜稽古。賀昌の耳に入っても、怪しまれない名目よ」
迎賓の宮の一室で、王女は卓に見取り図を広げた。賀昌の屋敷。門の位置。塀の高さ。裏手の水路。
「網は、二重に張ります。屋敷を見張る組と、使いの者を押さえる組。……押さえるのは、受け渡しが済んだ後よ。文を持つ前に捕えても、言い逃れられるもの」
「同感だ。」
景辰が頷いた。
「使いを追うのは、こちらの蒼真と蒼楽を。夜目と足には、自信がある。」
「頼もしいこと。……それと。」
玲琅は、ちらりと雨鈴を見た。
「あなたは、残る?」
「行きます。」
即答だった。
「あの……こう言われているんです。何があっても、殿下の傍を離れるな、って。だから…」
景辰が、渋い顔をした。
渋い顔をしたまま、反対はしなかった。
この娘が言い出したら聞かないことを、この男はもう知っている。
「では、あなたはわたくしと、屋敷を見張る組ね。……一番後ろで、一番安全な場所から。」
夜が、更けていく。
賀昌の屋敷を望む土塀の陰に、雨鈴は玲琅、景辰と共に潜んでいた。
息が白い。夜気が、じわじわと足元から染みてくる。
子の刻を過ぎた頃、屋敷の奥の一室に、小さな灯りが点いた。
(……始まった)
あの部屋だ。視の中の火桶。橙に照らされる、削いだような無表情。
今、あの灯りの下で、証が一枚ずつ灰になっている。
焦りが、喉元まで上がってくる。
今踏み込めば、燃やされる前の証が取れるのではないか。そう思ってしまう。
けれど、動かない。狙いは紙ではなく、文と、それを受け取る者。二重の網は、そのためにある。
――丑の刻。
屋敷の裏手、水路に面した小さな戸が、音もなく開いた。
影が一つ、滑り出てくる。中肉中背。荷を背負わず、懐だけが膨らんでいる。
足音を殺した歩き方は、およそ使用人のものではなかった。
影は水路沿いを下り、橋を渡らず、暗がりを選んで東へ向かう。
その後を、二つの影が追っていった。
追跡の一部始終を、雨鈴は後から聞いた。
使いの男は、慎重だった。二度立ち止まり、来た道を確かめ、わざと遠回りをした。
それでも、蒼真と蒼楽は食らいついた。市壁の際、人気の絶えた資材置き場で、男が息を抜いた一瞬。
二つの影が、同時に跳んだ。
「――口だ! 顎を押さえろ、歯を噛ませるな!!」
蒼楽の怒号が飛んだ。
組み伏せる寸前、男の顎が動いたのを、蒼楽は見逃さなかった。
毒の一件の夜、水桶の男が目の前でこと切れた。
あの光景が、まだ焼き付いていた。
蒼真の掌が、男の顎を締め上げる。
指をこじ入れ、奥歯の間から、小さな包みが摘み出された。
「……仕込み、ありました。」
「だろうよ。二度も同じ手を食うか。」
男は縛り上げられ、猿轡を噛まされ、懐から油紙の包みが取り出された。
――文の束。視の中で、賀昌が燃やさなかった、あの。
報せの笛が鳴ると同時に、屋敷の網も絞られた。
王女の兵が門と塀を固め、玲琅と景辰が、正面から踏み込む。
奥の一室。火桶。灰の山。そして、闇色の袍の男が、燃えさしの紙を手にしたまま、立っていた。
視の中と、寸分違わない光景だった。
「……これはこれは。」
賀昌は、逃げなかった。騒ぎもしなかった。
ゆっくりと紙を火桶に落とし、それから、いつもの笑顔を顔に戻した。
「王女殿下御自ら、このような夜更けに。……何用でございましょう?」
「夜稽古よ。ついでに、火の始末の検分もね。」
玲琅は、灰の山を扇で指した。
「ずいぶんと、燃やしたのね。礼部のお仕事は、夜中に紙を焼くことかしら。」
「私文書の整理にございます。官の記録は、一枚も混じっておりませぬ。……検めていただいても、結構。」
落ち着き払った声だった。灰になった紙は、もう誰にも読めない。
焼くところを見られても、罪には問えない。この男は、そこまで計算して笑っている。
その笑顔に向かって、玲琅は、静かに言った。
「――東の資材置き場で、あなたの使いを押さえたわ。」
賀昌の指が、止まった。
「懐に、文の束を抱えていた。油紙に包んで、大事に大事に。……あなたが、燃やさなかったものを。」
初めて。
本当に初めて、あの笑顔が、剥がれた。
迎賓の宮に戻り、灯りの下で、油紙が解かれた。
文は、七通あった。宛名はない。署名もない。周到に、名を残さない書き方がされている。
だが、高峻は、一通目を開いた瞬間に、眉を険しくした。
「……殿下。この料紙。」
「どうした?」
「――黎のものです。それも、市井には出回らぬ、宮中の御用紙かと。」
部屋が、静まり返った。
昊の主戦派を操っていた糸の端が、海を隔てた敵国ではなく。
自分たちの国の、宮中に繋がっている。
雨鈴は、指先が冷えるのを感じた。視たわけでもないのに。
――と、の。
あの口の形は、「都」だったのだ。




