第七十話:視えた火
翌朝、玲琅の招きという形で、雨鈴と景辰は王女の宮へ渡った。
軟禁の身でも、王女の招きは断れない。
皮肉なことに、嫌がらせに使われた理屈が、今は味方の通り道になっていた。
通された部屋には、寝台が運び込まれていた。
「――陸青!」
男は、半身を起こしていた。肩から胸に晒しが巻かれ、顔色は紙のようだったが、目は開いていた。
「……お見苦しいところを。」
「いいから寝てなさい。」
玲琅がぴしゃりと言う。
言いながら、その手が枕の位置を直している。
八年分の距離が、嘘のような近さだった。
「医者は、急所は外れたと。……矢が浅かったの。あの高さから射たにしては、不自然なほど。」
「雨鈴様の声で、殿下が動かれましたから。」
陸青が、静かに言った。
「あの一声で、的が動いた。射手は引き絞りを解いて、番え直した。……浅くなったのは、そのためです。あなたの声が、二人を救ったのですよ。」
雨鈴は、うまく返事ができなかった。
「それより、聞いていただきたいことが。」
陸青は、痛みに眉を寄せながら、話し始めた。
「名簿を洗っていた日、私は礼部の書庫におりました。修繕の手配書の写しを探して。……見つけました。あの足場の増員は、正規の手配ではありません。後から書き足された紙で、押されていたのは礼部の副印。あれを使える者は、三人とおりません。」
「……侍郎、賀昌様も、その一人ね。」
玲琅の声が、低かった。
「はい。……そこまで調べたところで、書庫を出た路地で囲まれました。連れ込まれたのは、街外れの倉です。米の俵に紛れて、細長い荷箱が積まれていました。運び出される時、一つ、蓋がずれて。」
陸青は、そこで一度、息を整えた。
「――矢でした。深緑の矢羽根の。箱には、焼き印がありました。国境の商家、万家の印です。」
「万家……」
玲琅の目が、すっと細くなった。
「国境の関で、軍への納入を一手に握っている家よ。戦のたびに肥える家。……そして」
王女は、雨鈴と景辰を見た。
「賀昌の、生家ですわ。」
部屋が、静まり返った。
和議派の顔。王の腹心。国境まで迎えに来て、完璧な礼で頭を下げた男。
あの温度のない笑顔が、雨鈴の頭をよぎった。
「……ですが、殿下。」
高峻が、慎重に口を開いた。
「副印と生家の焼き印。状況は揃っておりますが、どちらも言い逃れができます。副印は盗まれたと言えばよい。商家の荷箱など、いくらでも流れる、と。……本人を押さえるには、動かぬ現場が要ります。」
「そして、あちらは刺客の口を封じた。」
景辰が、続けた。
「次に消すのは、書きつけの類だ。手配書の写し、荷の記録。……証は、今夜にも灰になる。」
今夜。
その一言を口にしてから、景辰はしばらく黙っていた。
考えている顔だった。
何かを組み立て、そして、その組み立てたものの重さを、量っている顔。
やがて、その目が、王女へ向いた。
「――玲琅殿下。不躾を承知で、お願いがございます。」
「なにかしら?」
「しばし、この部屋を我らにお貸し願いたい。……身内で、話さねばならぬことがあります。」
部屋の空気が、静かに張り詰めた。
玲琅は、しばらく景辰を見ていた。それから、雨鈴を見た。
問い詰められる、と雨鈴は身構えた。
当然だ。共に戦っている相手に、隠しごとがあると言われたのだ。
けれど王女は、扇を開いて、あっさりと立ち上がった。
「いいわ。陸青も、隣へ移させます。」
「……ありがとうございます。」
「その代わり…」
戸口で、玲琅は振り返った。
「わたくしは、何も聞かない。詮索もしない。……でも、そこで分かったことは、全部わたくしに頂戴ね。」
扇の陰の目は、笑っていなかった。
「わたくしが差し出しているのは、この国の膿よ。命懸けの部下も、王女の名も、全部賭けているの。……対等でいてくださるわね?」
「――誓います。」
景辰の返事に、玲琅は満足そうに頷いて、出ていった。
戸が閉まる。
残ったのは、景辰、雨鈴、翠華、蒼真、蒼楽、高峻。身内だけになった。
「……雨鈴。」
「うん。」
「賀昌を、視ろ。」
「殿下!」
翠華が、思わずといった調子で声を上げる。
景辰は、それを手で制した。
「陸青殿の調べで、疑いはあの男一人に絞れた。副印。生家の荷。……ここまで揃えば、もう闇雲ではない。」
景辰の指が、卓を叩いた。
「そして、動くのは今夜だ。証を焼くにせよ、誰かへ託すにせよ、明日では遅い。」
景辰の目が、こちらを向いた。
「今夜を、刻んで視ろ。亥の刻、子の刻、丑の刻。……一度に長く視るな。数十秒ずつだ。」
――ああ。
雨鈴は、思わず息を呑んだ。
この人は、いつもそうだ。
闇雲に覗かせない。調べで的を絞って、絞りきったところへ、短い矢を、何本かに分けて撃たせる。
毒の一件で、二人で決めた通りの使い方だった。
「――視るわ。」
雨鈴は、はっきりと答えた。
「それで足りなかったら、また明日にする。」
「……頼む。」
その一言に、胸の奥が、静かに熱くなった。
壁際の椅子。翠華が戸を背にして立ち、蒼真が正面に膝をつく。
「それではいきます。」
「……どうぞ。刻は、俺が計ります。」
雨鈴は、目を閉じた。
あの男の顔を、思い返す。国境の関で見た、恰幅のいい体躯。
隙のない官服。温度のない、完璧な笑顔。
――まず、亥の刻。
もやの中に、賀昌がいた。男だけが、鮮明だった。
官服のまま、灯りの下で書きものをしている。
落ち着いた手つき。いつもの顔。誰かがもやの向こうから何か言い、男は笑って頷いた。
……何もない。
「十秒。」
蒼真の声が、遠くで聞こえた。雨鈴は一度、息を吐いて、次を撃った。
――子の刻。
部屋が、暗い。
賀昌は、官服を脱いでいた。地味な、闇に沈む色の袍。
その顔に、あの笑顔はなかった。初めて見る、削いだような無表情。
男の手が、動いている。
紙だ。紙の束を、一枚ずつ検めては、脇の火桶へ落としている。
手つきに、迷いがない。炎が紙を舐めるたび、男の顔が橙に照らされる。
(……燃やしてる。やっぱり)
「十秒。」
――丑の刻。
火桶の炎は、小さくなっていた。灰の量が、増えている。
男が、懐から細長い包みを取り出した。
油紙を解くと、中から出てきたのは、文の束だった。
他の紙とは、扱いが違う。
男はそれを火にくべず、じっと見て――やがて、袖の内へ戻した。
(燃やさない?……燃やせないもの?)
男が、顔を上げた。
もやの向こうから、人の形をした滲みが近づいてくる。
誰かは、分からない。声も、ざわめきに溶けて聞こえない。
賀昌が、袖の内から先ほどの文の束を出し、滲みへ差し出した。
滲みが、それを受け取る。
男の口が、動いた。何を言ったかは、聞こえない。
ただ、その口の形が――たった二文字だけ、読めた気がした。
――と、の。
(殿? ……都?)
滲みが、遠ざかっていく。
賀昌はまた火桶の前に戻り、何事もなかったように、紙を燃やし続けた。
「――十秒。……雨鈴様、一度戻ってください。」
肩を揺すられて、雨鈴は目を開けた。
「……全部で、五十秒くらい?」
「一分に、少し足りません。まだ四分あります。」
蒼真が、手巾で額を拭ってくれる。指先は冷えていたが、頭は、はっきりしていた。
聞き終えた景辰の顔は、険しかった。
「亥の刻は、素知らぬ顔。子の刻から焼き始め、丑の刻に、燃やせぬ文を誰かへ託す。」
景辰の指が、卓の上で刻を切った。
「……刻が、割れたな。網を張るのは、丑の刻だ。」
「文の束だけ、扱いが違いました。あれはたぶん、燃やしたら困るもの。……手元に置いたら、もっと困るもの。」
「――脅しの種か、あるいは、主への義理立てか。」
高峻が呟いた。
「いずれにせよ、その文が、あの男の背後を語ります。受け渡しの現場ごと押さえられれば。」
「玲琅殿下に、諮る。」
景辰が、立ち上がった。
「今夜だ。網を張るなら、日のあるうちに決めねばならん。」
部屋を出る間際、雨鈴は、もう一度だけ考えていた。
あの口の形。と、の。
殿、なら――誰かを、そう呼んだのか。
都、なら――あの文は、東へ向かう。
……私たちの国へ。




