第六十九話:濡れ衣
「――黎の一行を、捕らえよ!!」
野太い声が、広間を割った。
進み出たのは、鎧に身を固めた偉丈夫だった。
頬に古い刀傷。居並ぶ武官たちの先頭に立つ、この国の大将軍・韓鉄。
「矢が何よりの証!黎の禁軍の矢だ!和議と偽り、式典に紛れ、王女殿下のお命を狙った――これが黎国のやり口よ!!」
兵が、動いた。
槍の穂先が、ぐるりと一行を囲む。
蒼楽の手が剣の柄にかかり、護衛たちが景辰と雨鈴を背に庇って半円を組んだ。
「抜くな。」
景辰の声は、低く、静かだった。
「一人でも抜けば、それこそ思う壺だ。……全員、手を離せ。」
蒼楽が、奥歯を噛んで、柄から手を離す。
広間の温度が、氷点まで下がっていた。
誰かが一歩間違えれば、この場で戦が始まる。
誰もが、それを分かっていた。
「韓鉄将軍。」
景辰は、槍の輪の中から、まっすぐに男を見た。
「一つ、伺いたい。……刺客が、自国の紋の入った矢を、ご丁寧に矢筒いっぱいに担いで参りますか。それも、逃げ道まで整えた手練れが。」
「――詭弁を!」
「詭弁かどうかは、あれに問えばよい。」
景辰は、床に転がされた射手を、顎で示した。
「生かして捕らえてある。口を割らせれば、雇い主も出る。……それとも将軍。あの男に喋られては、困りますかな?」
「貴様!!」
韓鉄の顔が、朱に染まった。槍の輪が、じり、と縮まる。
その時だった。
「――お待ちなさい。」
凛とした声が、広間に通った。
玲琅だった。
陸青が戸板で運び出されていくのを見送って、王女は緋の敷物の中央に、一人で立った。
衣の裾には、まだ血の色が残っている。
「父上。発言をお許しください。」
玉座の王が、重く頷いた。
「まず、事実を申し上げます。――昨日、わたくしは黎国の御一行より、報せを受けておりました。」
広間が、ざわめいた。
「式典の足場に、職人に紛れた不審の者がいる、と。武官殿の見立てとして、正式に。……わたくしはその報せを受け、昨夜、回廊を兵に改めさせました。記録も、立ち会った兵もおります。」
玲琅は、ゆっくりと広間を見渡した。
「韓鉄将軍。伺いますが――王女を殺そうとする者が、前日に、わざわざその場所を報せて、捜索までさせますか?」
「そ、それは……」
「そして今日。矢が放たれる前に、わたくしに『上』と叫んで報せてくださったのは、そちらの、黎の側室の方です。」
何百という視線が、末席の雨鈴に集まった。
「あの声がなければ、わたくしは、今ここに立っておりません。……殺したい相手の命を、二度も救う刺客が、どこの国におりますの?」
広間が、静まり返った。
韓鉄が、何かを言いかけて、言えずに、拳を震わせている。
「矢羽根が黎のものであること。それ自体は、事実でしょう。」
玲琅は、最後に、玉座を見上げた。
「ですが父上。矢は、持たせることができます。紋は、刻ませることができます。……誰かが、この場で戦を始めたがっている。娘には、そう見えてなりません。」
長い、沈黙があった。
やがて王が、口を開いた。
「――刺客の尋問を待つ。裁きは、それからだ。」
低い、疲れた声だった。
「黎の御一行には、迎賓の宮にて……客として、お過ごしいただく。警護は、こちらで付ける。」
体のいい軟禁だった。それでも、槍の輪は解かれた。
この場は――凌いだ。
迎賓の宮に戻ると、雨鈴は椅子に座り込んだまま、動けなくなった。
今頃になって、手が震え出した。
何百人の前で叫んだ。異国の王宮で。末席の側室が。
「……手を。」
景辰が、向かいに膝をついて、両手で雨鈴の手を包んだ。
「冷えている。……視たのか?」
「ううん。これは、視たからじゃなくて……ただの、震え。」
「そうか。」
景辰は、手を離さなかった。
「……よく、叫んだ。」
「作法、全部忘れちゃった。」
「作法で人は救えん。」
その言い方があんまり景辰らしくて、雨鈴は少しだけ笑えた。
笑ったら、余計に手が震えた。震えが止まるまで、景辰はずっと、そのままでいた。
報せが来たのは、真夜中だった。
戸を叩いたのは、玲琅の使いの女官だった。
青い顔で、声を潜めて、告げた。
「――刺客が、死にました。」
「!」
「獄の内で、毒を。……夕餉に紛れていたと。」
部屋の空気が、凍った。
「尋問は?」
「一度も、口を開かぬまま。」
高峻が、静かに言った。
「……獄は、王宮の内。夕餉に手を入れられるのは、宮の内の者だけです。」
つまり。
敵は、外から来たのではない。
この王宮の、内側にいる。
獄に手が届き、礼部の名簿に人を紛れ込ませ、黎の矢を用意できる場所に。
雨鈴は、ふと、視の中の光景を思い出した。
――男は、それを見届けなかった。すぐに身を翻し、屋根の下を這うように移動していく。
逃げ道は、もう決まっているらしかった。
逃げ道が、決まっていた。
あれは、手引きがあったということだ。
最初から、視えていたのだ。あの時は、意味が分からなかっただけで。
「……景辰。」
「ああ。」
「敵は、この宮の中にいる;」
窓の外は、月もない闇だった。
尋問という道は断たれた。
証は、まだこちらの潔白を示しきれていない。そして、次の一手は、必ず来る。
――口を封じるほど、追い詰められている者から。




