第六十六話:三歩後ろの男
翌日から、雨鈴は「何も知らない客人」になった。
もともと、そう扱われている。誰も警戒しない。それを、そのまま使うだけだ。
「わあ、この彫り物、すごい……!」
柱を見上げて感嘆し、庭を褒め、厨の匂いに鼻をひくつかせる。
市井育ちの側室が、異国の宮殿に目を丸くしている。誰の目にも、そう映るはずだった。
その裏で、雨鈴は数えていた。
どの扉に人が立っているか。どの回廊が急に通行止めになったか。給仕の女たちが、どの話題で口を閉じるか。
「――蒼真。あそこ。」
三日目の昼、雨鈴は足を止めた。
式典の広間の、外壁沿い。二階の高さに渡された回廊に、足場が組まれている。
壁の塗り直しをしているらしく、職人が数人、上り下りしていた。
「修繕でしょう。式典前ですから。」
「うん。……ねえ、あの人たち、大工に見える?」
蒼真の目が、すっと細くなった。
しばらく、無言で見上げていた。
「……足の運びが、違いますね。」
「でしょう?」
「あれは、荷を担いで足場を渡る歩き方ではありません。……重心が低い。踏み込みの足が、常に決まっている。あれは…」
「――弓を引く人の、立ち方。」
雨鈴が言うと、蒼真は驚いたようにこちらを見た。
「なぜ、それを?」
「市の見世物小屋。弓の的当てで銭を稼ぐ人がいたの。……あの人たちと、同じ立ち方。」
翠華が、そっと日傘を傾けた。こちらの視線を隠すためだ。
「雨鈴様。あの回廊から見下ろせるのは」
「うん。」
雨鈴は、視線だけを広間の方へ動かした。
――式典で、賓客が並ぶ場所。ちょうど、その真上だった。
その夜、玲琅の部屋で報告をした。
王女は、話を聞き終えると、しばらく黙って卓を見つめていた。
「……あの回廊の修繕は、礼部の手配よ。三日前に急に決まったの。」
「礼部って、賀昌様の。」
「ええ。……でも、あの人は和議派よ。父の腹心だもの。だとすれば、下に紛れ込まれたか。」
玲琅は、指先で卓を叩いた。
「陸青!」
戸口の脇に控えていた武官が、音もなく一歩前に出た。
年の頃は二十半ば。日に焼けた、飾り気のない顔立ち。
ずっとそこにいたのに、雨鈴はほとんど気にも留めていなかった。
それくらい、気配を消すのが上手い男だった。
「あの足場に上がった職人の、名簿を洗って。礼部の記録と、実際に来ている人数を突き合わせるの。……気づかれないように。」
「承知いたしました。」
陸青は、短く答えて、そのまま下がっていく。
その背中を見送る玲琅の目が――ほんの一拍だけ、王女のものではなくなった。
(……あ)
雨鈴は、湯呑みに口をつけながら、気づかないふりをした。
「――言いたいことがあるなら、どうぞ。」
扉が閉まってしばらく、玲琅がそう言った。
「い、いえ、何も。」
「顔に出ているわ。……あなた、本当に嘘が下手ね。」
「よく言われます。」
玲琅は、ふ、と息を吐いて、扇を卓に置いた。
「陸青は、うちの下級武官の子よ。家格なんて、あってないようなもの。……十のときから、わたくしの警護についているの。」
「そう、なんですね。」
「八年ね。……八年、三歩後ろを歩いてきた男よ。」
王女の指が、扇の骨をなぞった。
「一度も、こちらから振り返らなかったわ。振り返ったら、あの人の首が飛ぶもの。」
雨鈴は、何も言えなかった。
「あなたも、そういう顔をしていたわ。茶会の時。」
「……え?」
「皇子殿下が卓の下で拳を握ったとき。あなた、目だけで首を振ったでしょう。……動かないで、って。」
玲琅が、こちらを見た。
「あれは、好いた男を守る目よ。わたくしには分かるわ。」
顔が、熱くなった。否定しようとして、できなかった。
「……ずるいですね、玲琅様も。」
「あら、お互いさま。」
二人は、少しだけ笑った。
「わたくしは、この国に生まれたわ。」
やがて、玲琅は静かに言った。
「王女として生まれた以上、嫁ぐ先を選ぶ権利はないの。父も、国も、それを当たり前だと思っている。……わたくし自身も、そう思っているわ。」
「玲琅様。」
「でもね、嫁ぐことは受け入れても、戦になるのだけは、嫌なの。」
言葉に、初めて熱がこもった。
「わたくしが嫁いで戦が止まるなら、いくらでも嫁ぐ。でも、わたくしを餌にして戦を始めようとする者がいるなら、話は別よ。……そんなことのために差し出される命じゃないわ。わたくしのも、あの人のも、民のも。」
その横顔を見ながら、雨鈴は思った。
この人は、諦めているのではない。受け入れた上で、譲れない一点を決めているのだ。
――ああ、それは。
私が、末席でいいと決めた時と、同じだ。
部屋を出て、廊下を歩きながら、雨鈴は考えていた。
あの回廊の職人たち。名簿の照合には、時間がかかる。式典は、明後日。
間に合わなかったら?
「……蒼真。」
「は」
「使う。」
蒼真の足が、止まった。
「――今、ですか?」
「うん。昼間、足場の上にいた人の顔、覚えてる。一人だけ、はっきり見えた。」
「壁際へ。……座れる場所を探します。」
迷いはなかった。準備の速さだけが、そこにあった。
柱の陰の、腰掛けられる石の上。翠華が背を隠すように立ち、蒼真が正面を塞ぐ。
雨鈴は、目を閉じた。
あの男の顔を、思い返す。日に焼けた頬。落ちくぼんだ目。
足場の上から、こちらを一度も見なかった男。
――視える。
指先から、冷たさが這い上がってくる。
いつもと、同じだ。視えるのは、思い返したその人だけ。
周りの何もかもは、もやがかかったように滲んでいて、声はざわざわとした塊にしかならない。
もやの中に、あの男が立っている。
男だけが、恐ろしいほど鮮明だった。
薄暗い場所にいる。狭い。屋根がすぐ上にある。
伏せた姿勢で、身じろぎもしない。日に焼けた頬。落ちくぼんだ目。その目が、下を見ている。
男の手が、動いた。
布を、めくる。中から出てきたものを、慣れた手つきで組み上げていく。
継ぎ手が噛み合う音。弦を張る、きり、という軋み。
――弓だ。
ざわめきが、少し大きくなった。楽の音らしきものが、もやの向こうで鳴っている。
何を演奏しているのかは、分からない。
人の形をした滲みが、下の方でゆっくりと動いているのが、辛うじて見える。
誰が誰かなど、まるで分からない。
男が、矢をつがえた。
息を、吸う。止める。
その頬の、汗の一粒までが視えるのに――男が何を狙っているのかだけが、視えない。
(――待って)
放たれた。
男の目が、放った先を追う。だから雨鈴の視界も、そちらへ引きずられる。
もやの中で、色の塊が一つ、崩れた。
ざわめきが、悲鳴の形に変わる。
人の滲みが割れるように散って、崩れた塊の周りに集まっていく。
男は、それを見届けなかった。
すぐに身を翻し、屋根の下を這うように移動していく。
逃げ道は、もう決まっているらしかった。
――そこで、途切れた。
「……雨鈴様!」
「雨鈴様、大丈夫ですか?」
肩を揺すられて、雨鈴は目を開けた。
二人の顔が、すぐそこにあった。
翠華が肩を支え、蒼真が手首を掴んでいる。
手のひらが、氷のように冷たかった。
「……何分使った?」
「二分です。まだ、三分残っています。」
蒼真の声は、驚くほど落ち着いていた。稽古の通りだった。
雨鈴は、荒い息を整えながら、掠れた声で言った。
「……止めなきゃ。」
「何を、視ましたか?」
「式典で、誰かが、射られる。……あの男が、回廊の上から。」
言いながら、指の震えが止まらなかった。
視えたのは、あの男だけ。あの男の頬の汗まで視えたのに。
――倒れたのが、誰だったのか。
それだけが、最後まで、もやの向こうだった。




