第六十五話:王女の取引
通されたのは、王女の私室に近い、小さな一室だった。
窓の外には、白い石を敷いた庭。
玲琅は侍女たちを下がらせ、翠華にだけ「あなたは残っていいわ」と言って、自ら茶を注いだ。
異国の王女が、末席の側室に、手ずから。
「……恐れ多いことです。」
「作法の話は、外でやりましょう。ここでは要らないわ。」
玲琅は向かいに腰を下ろし、扇を畳んだ。
そして、笑みを消した。
驚くほど、別人の顔になった。
「まず、詫びておきます。うちの者たちが、あなたにしたこと。」
「あの、それは。」
「北の部屋。ぬるい湯。給仕の順。呼び方。……そして、欠けた杯。」
一つずつ、正確に数え上げていく。
「あれは、わたくしの指図ではないわ。でも、わたくしの国で起きたことよ。だから、詫びます。」
雨鈴は、湯呑みを持ったまま、言葉を探した。
「……失礼ですが、玲琅様。伺ってもよろしいですか?」
「どうぞ。」
「あの嫌がらせ、誰の得になるんでしょう?」
玲琅の眉が、ほんのわずかに上がった。
「あら。」
「私が惨めになるだけなら、意味がありません。ただの意地悪なら、誰かの手が滑っただけで済みます。でも、あんなに丁寧に、全部証拠が残らない形でやるなら――目的が、あるはずです。」
そこで一度、息を継いだ。
「あれは、景辰を怒らせるための挑発です。私は、そのための餌。」
――かちり、と。
玲琅が、指の先で卓を一度叩いた。
「……見えているのね、やっぱり。」
「え?」
「茶会で、ずっと見ていたわ。あなた、末席の柱の陰から、広間中を見ていたでしょう。誰が誰に目配せをしたか、誰が席を立ったか。……その目が欲しくて、わたくしはここへ呼んだの。」
玲琅は、身を乗り出した。
「話が早くて助かるわ。あなたの言う通りよ。あれは挑発。皇子殿下が卓を蹴って怒鳴れば、それで十分だった。『黎国の皇子は、我が国の非礼に激昂し、席を蹴った』――その一行が朝廷に回れば、婚儀の話は消し飛ぶもの。」
「……婚儀を、壊したい人がいる。」
「ええ。うちの国に、山ほどね。」
玲琅は、茶を一口含んだ。
「うちの父は、和議を続けたい。だから、この婚姻を進めたがっている。……けれど、それを苦々しく思っている者たちがいるの。先の戦で手柄を立てそこねた将軍たち。戦がなければ得をしない家。国境で商いをして肥えている者たち。」
言葉が、淡々と続く。この人は、自分の国の膿を、正確に把握している。
「あの者たちにとって、この婚姻は最悪よ。血で結ばれてしまえば、当分は戦ができない。……だから、必ず壊しに来る。」
「……壊すって、どうやって。」
「そこよ。」
玲琅の目が、鋭くなった。
「杯の嫌がらせで済むなら、可愛いものだわ。でも、うまくいかなかったら?次は、もっと確かな手を打つ。……たとえば、式典の場で、黎国の皇子が害されたら?」
背筋が、冷たくなった。
「あるいは逆に、黎国の護衛が、我が国の要人を斬ったことにされたら?――どちらでも、戦になるわ。」
湯呑みを持つ手が、震えた。
――あの国は、笑って迎える顔の裏で、何を考えているか分からん相手だ。
あの人の忠告が、あんなに具体的だった理由が、今になって分かる。
景明は、この国のこの構図を、全部知っていたのだ。
知っていて、それでも「行け」と弟に押し付けた。
(……いいえ。)
違う。あの人は、雨鈴が同行すると聞いた瞬間、本気で止めた。
あれは、そういうことだったのだ。
「玲琅様。……取引とは?」
「わたくしの目になって。」
王女は、まっすぐに言った。
「わたくしは、この国の人間よ。誰に何を尋ねても、必ず相手が身構える。……でも、あなたは違う。あなたは異国から来た、後宮の作法も知らない、末席の側室。誰もあなたを警戒しないわ。」
「……それって…」
「最高の褒め言葉のつもりよ。」
玲琅は、初めて、素の顔で少し笑った。
「式典まで四日。あなたは客として、どこへでも入れる。見たこと、聞いたこと、感じた違和感を、わたくしに教えて。……代わりに、わたくしはあなたの立場を守る。うちの者は、二度とあなたに手出しさせない。それと、こちらで掴んだことは、全部あなたに流すわ。」
「……なぜ、そこまで?」
「戦になったら、死ぬのはうちの民よ。」
即答だった。
その一言で、雨鈴はこの人を信じる気になった。
理屈ではなく、答えるまでの速さで。
「……分かりました。お受けします。」
「取引成立ね。」
話が済むと、玲琅はまた茶を注ぎ足した。
そして、扇を弄びながら、世間話のような調子で言った。
「ところで、雨鈴様。……第三皇子殿下は、どんな方?」
どき、とした。
「わたくし、明日にもお相手が決まるかもしれない身よ。人となりくらいは、知っておきたいでしょう?」
――ああ、そうだ。
この人は、味方でも、共犯でも、それ以前に、景辰の縁談の相手だ。
雨鈴は、湯呑みを両手で包んだ。
嘘をつけばいい。愛想のない人です。
怒りっぽくて、口が悪くて、と。そう言えば、この縁談は少しは遠ざかるかもしれない。
――言えるわけがなかった。
「……口が悪くて、素直じゃなくて、人を振り回します。」
「あら。」
「でも、自分より弱い人のために、必ず自分で動く人です。冤罪の男を助けるために、夜通し馬を走らせるような人。……それを、誰にも自慢しない人です。」
言いながら、声が震えそうになった。
「良い方だと思います。……とても。」
部屋が、静かになった。
玲琅は、扇を止めて、しばらく雨鈴を見ていた。
「……あなた、ずるいわ。」
「え?」
「そんな言い方をされたら、わたくしが悪者になれないじゃないの。」
王女は、ふう、と息を吐いて、椅子の背にもたれた。
「安心なさい。今日のところは、何も決まっていないわ。……それに、わたくしにも、思うところがあるのよ。」
その横顔が、一瞬だけ、遠くを見た。
部屋を辞する時、玲琅は戸口まで見送りに来た。
そして、雨鈴の耳元で、囁いた。
「式典の日。何が起きても、殿下の傍を離れないで。」
――同じ言葉だった。
都の庭で、布の男が言ったのと、寸分違わず。
雨鈴は、廊下を歩きながら、指先が冷えていくのを感じていた。




