第六十四話:欠けた杯
王都は、壮麗だった。
白い石壁。天を突く楼閣。
都のそれとは似ても似つかない、鋭くて硬い美しさ。
沿道には人が並び、異国の皇子の一行を、好奇と警戒の入り混じった目で見つめていた。
あてがわれた迎賓の宮も、見事なものだった。
――表向きは。
「……雨鈴様。お部屋を替えていただくよう、申し入れます。」
荷を解いた翠華が、硬い声で言った。
「殿下のお部屋は南向き、日当たりも風通しも申し分ございません。ですが雨鈴様のお部屋だけ、北の端。日は入らず、風は通り道。……夜は、冷えます。」
「いいよ、ここで。」
「よくありません。それに、湯も。」
翠華の眉が、きりりと上がる。
「殿下と柏峰様たちには熱い湯が運ばれたのに、雨鈴様の湯だけ、ぬるうございました。給仕の順も、茶の熱さも、何もかも、一段ずつ下。……偶然が、これだけ揃うものですか。」
雨鈴は、苦笑した。
気づいていた。気づかないわけがない。
市育ちを嘗めてもらっては困る。
軽んじていい客と、そうでない客を分ける手つきなら、物心つく前から見てきた。
呼ばれ方もそうだ。景辰は「皇子殿下」。
雨鈴は「お連れの方」。
側室と知らないはずがないのに、誰一人、そうは呼ばない。
礼は、尽くされている。完璧に。
完璧な礼の形をした、完璧な「お前の格はここだ」という通告だった。
(……ああ、これか。)
雨鈴は、あの庭の声を思い出していた。
――やめておけ。都で待っていろ。
あの人は、これを知っていたのだ。
異国の宮廷が、格下の女をどう扱うか。
笑顔のまま、証拠も残さず、じわじわと削ってくることを。
だから、あんなに止めたのだ。
「翠華。申し入れは、なし。」
「雨鈴様!」
「考えてみて。私の部屋のことで景辰が口を利いたら、どうなる?『側室ごときの扱いで目くじらを立てる皇子』って話が、明日には宮中を回る。……縁談の席で、それは駄目。」
翠華は、唇を噛んだ。
「……悔しゅうございます。」
「私も。だから、堂々としてよう。ね?」
その夜、部屋に来た景辰は、何も言わなかった。
何も言わずに、自分の上衣を脱いで、雨鈴の肩に掛けた。
「……あれ、儀式でしょ。なんで今?」
「夜は冷える。この部屋は、特にな。」
――知っている。この人も、全部気づいている。
気づいた上で、口に出せば互いの立場が悪くなるから、上着一枚に全部を込めている。
「……あったかい。」
「そうか。」
それだけの会話だった。それだけで、十分だった。
三日目。王宮での、歓迎の茶会が開かれた。
式典を前に、王族と重臣が居並ぶ席。
景辰は上座近く、雨鈴は末席――までは、いい。末席は慣れている。
問題は、その席が、柱の陰の風の通り道だったことと。
目の前に置かれた杯の、縁が。
――欠けていたことだった。
(……なるほどね。)
雨鈴は、瞬き一つしなかった。
欠けた杯を客に出す。
それが何を意味するかは、国が違っても変わらない。
しかも、末席の女の杯など、誰も検分しない。
抗議すれば「その程度のことで」と笑われる。
完璧に、逃げ道のない嫌がらせだった。
遠くの上座で、景辰がこちらを見ている。
その目が、杯に落ちて、止まった。
卓の下で、拳が固まるのが、遠目にも分かった。
(駄目。動かないで。)
雨鈴は、目だけで首を振った。
ここで皇子が立てば、茶会が壊れる。縁談が壊れる。
国と国との話が、欠けた杯一つで壊れて、その責は全部、末席の女が負うことになる。
景辰は、動けない。動けないことを、仕掛けた側も分かっている。
(……飲めばいいんでしょ、飲めば。)
雨鈴が杯に手を伸ばした、その時だった。
「――皆さま、お待たせいたしました。」
鈴を転がすような声とともに、広間の空気が変わった。
立ち上がる人々。頭を垂れる重臣たち。
入ってきたのは、若い姫だった。
歳は十八と聞いた。艶やかな黒髪に、金の歩揺。
涼やかな目元に、絵筆で引いたような笑み。
なるほど、我が国の珠と呼ばれるだけのことはある。
――第一王女、玲琅。
王女は優雅に広間を横切り、上座の景辰に完璧な礼をして、二言三言、如才ない挨拶を交わした。
それから、ゆっくりと居並ぶ席を見渡して。
その視線が、末席で、止まった。
(……!)
玲琅は、まっすぐに歩いてきた。
広間中の目が、その背を追う。
末席の、柱の陰の、風の通り道へ。異国の側室の前へ。
そして、雨鈴の卓の上の杯を、一瞥した。
一瞥で、すべてを見て取ったのが分かった。
「……あら。」
王女は、にこりと笑った。
「素敵な杯。わたくし、こういう景色のある器が好きですの。」
白い指が、伸びて。
欠けた杯を、するりと取り上げた。
「これは、わたくしがいただくわ。――誰か、雨鈴様に新しい杯を。わたくしの棚から、対の白磁をお持ちなさい。」
広間が、凍りついた。
給仕の女たちの顔から、血の気が引いていく。
王女は欠けた杯を手にしたまま、何事もなかったように続けた。
「それと、この席は風が通るのね。……わたくしの隣が空いているわ。雨鈴様、こちらへ。遠来のお客様と、ゆっくりお話がしたくてよ。」
「れ、玲琅様、それは、その方は側室の……」
脇から、侍女頭らしき女が慌てて囁いた。
玲琅は、笑顔のまま、その女を見た。
「――あなた、下がりなさい。」
声は、あくまで柔らかかった。
「客人と道具の区別がつかない目に、わたくしの茶会の給仕は任せられないわ。」
女が、真っ白になって退がっていく。
広間の温度が、一段、下がった。
誰もが理解した。この姫は、全部、分かっていて。
分かった上で、衆目の前で、全部ひっくり返したのだ。
(……この人。)
雨鈴は、王女の隣の席に導かれながら、混乱していた。
悪役だと思っていた。景辰を射止めに来る、恐ろしい姫だと。
嫌がらせの大元だと、正直、思っていた。
それなのに。
「――ふふ。」
隣に座った玲琅が、扇の陰で、小さく笑った。
「驚いた顔。……ごめんなさいね、うちの者たちが、失礼をしたでしょう?」
「い、いえ、そんな。」
「隠さなくていいの。ぬるい湯。北の部屋。……全部、報せは入っているわ。」
扇の上の目が、いたずらっぽく細くなる。
どこかで見たことのある目だと思ったら――蘭月様だ。あの人と、同じ種類の目をしている。
「ねえ、雨鈴様。」
王女は、扇をわずかに傾けて、雨鈴にだけ聞こえる声で、囁いた。
「あなたと、二人でお話がしたいの。……わたくしと、取引をしませんこと?」




