第六十三話:国境の笑顔
白楊村を出て、二日。
峠を越えると、風の匂いが変わった。
山肌に張り付くような細い道を下り、川沿いをさらに半日。
やがて前方に、灰色の石を積んだ砦と、固く閉ざされた門が見えてきた。
――国境の関。
物見の兵が、こちらを見下ろしている。
矢倉の影。槍の穂先。旗の色が、ここから先は違う。
「……着いたな。」
景辰の声も、心なしか低かった。
先の戦から、十年足らず。
和議はあれども、友好とは程遠い相手。
その国の土を、これから踏む。
雨鈴は、膝の上で手を握った。
頭の中で、あの人の声が蘇る。
――あの国は、笑って迎える顔の裏で、何を考えているか分からん相手だ。
関の向こうには、迎えの一団が待っていた。
先頭の男が、深々と礼をする。
年の頃は四十半ば。恰幅がよく、絹の官服を隙なく着こなし、そして――笑っていた。
「ようこそ、お越しくださいました。昊国礼部侍郎、賀昌と申します。景辰皇子殿下の御一行を、王都までご案内つかまつります。」
流暢な、こちらの国の言葉だった。発音の癖すら、ほとんどない。
「丁重な出迎え、痛み入る。」
「なんの。両国の睦みの、大切な御客人にございますれば。」
賀昌は、笑顔のまま一行を見渡した。
その目が、荷の数を数え、護衛の腕を測り、そして、雨鈴の上で、ほんの一拍だけ止まった。
「……おや。そちらの姫君は?」
「私の側室だ。同道させている。」
「これはこれは。御側室様まで。……ようこそ、遠路はるばる。」
賀昌は、雨鈴にも深々と礼をした。
礼の角度は、完璧だった。完璧すぎて、温度がなかった。
(――笑って迎える顔)
雨鈴は、習った通りの礼を返しながら、思った。
この人の笑顔は、市で見たどの商人の笑顔とも違う。
売りたいものがあるのでも、値切りたいのでもない。
ただ、こちらの全部を検分するための、道具としての笑顔だ。
その夜は、国境の町の迎賓の館に泊まった。
出てきた夕餉は、豪勢だった。見たこともない香辛料の匂い。
大皿に盛られた肉。琥珀色の酒。
「さ、どうぞ。我が国の自慢の膳にございます。」
賀昌が、にこやかに勧める。
雨鈴の箸が、伸びかけて――止まった。
――宴の席で出されたものは、迂闊に口にするな。
「……まあ、美味しそう。」
笑顔で受けながら、隣の翠華へ、ちらりと目をやる。
翠華は心得た顔で、給仕の作法という体を装い、皿のひとつひとつに先に箸をつけていった。
毒見だと気取られない、流れるような手つきだった。
賀昌は、その様子を、笑顔のまま眺めていた。
眺めて、何も言わなかった。
何も言わないことが、「気づいている」という何よりの返事だった。
膳が下がる頃、賀昌が、世間話の調子で切り出した。
「王都までは、あと五日ほどにございます。式典の前日には、王宮にお入りいただき……ああ、そうそう…」
男は、ぽんと手を打った。
「王女殿下におかれましても、皇子殿下のお越しを、それはそれは心待ちにしておられますよ。」
――王女。
卓の空気が、わずかに変わった。
「……王女殿下、とは?」
「玲琅様。我が王の第一王女にあらせられます。御歳十八。それはもうお美しく、聡明で、我が国の珠と讃えられる御方で。」
賀昌の言葉は、よどみなかった。
よどみなさすぎた。まるで、用意してきた口上のように。
「此度の式典には、遠来の賓客をもてなす役を、自ら買って出られましてな。……とりわけ、貴国の皇子殿下をおもてなしできることを、楽しみにしておられる。」
「……光栄なことだ。」
景辰の返事は、短かった。
「ええ、ええ。まことに。」
賀昌は、深く頷いた。
「この度の御縁が、両国の末永き睦みの、始まりとなりますよう。……我が国の者は皆、そう願っております。」
――御縁。
その二文字が、妙な重さで、卓の上に残った。
部屋に戻り、人払いをしてから、景辰は低く言った。
「……蒼楽。高峻。今の口上、どう聞いた?」
「『縁』ですねえ。」
蒼楽の声から、軽さが消えていた。
「賓客のもてなしに、年頃の第一王女が自ら名乗り出る。使者は会う前から王女の器量を売り込んでくる。……あれはもう、婚儀の下見の口上ですよ。」
「私も、そう聞きました。」
高峻が頷いた。
「そもそも、即位十年の式典に、わざわざ皇子の御名指しで招きが来ること自体、異例にございます。……おそらくこの招き、初めから、同盟の縁組みを見据えたもの。式典は、その表看板かと。」
部屋が、静まり返った。
雨鈴は、卓の端で、湯呑みを握りしめていた。
縁組み。同盟。王女。
頭では、分かる。国と国との話だ。
皇子の婚姻は、政の道具だ。後宮で、嫌というほど教わった。
でも。
(……それって)
この旅は、初めから、そういう旅だったということか。
景明様が行くはずだった、お見合いの旅。それを、景辰が、代わりに。
――私を守るための取引で。
「……兄上め。」
景辰が、低く、吐き捨てた。
「面倒なのは、これか。」
行く気が進まぬ、と兄は言った。理由は言わなかった。
言わないことで、何かがあると教えるのが、あの人の癖だと知っていたのに。
押し付けられたのは、敵国の式典ではない。
敵国との、縁談だった。




