第六十二話:白楊を出る
朝が来た。
泣き腫らした目に、窓からの光が痛い。
雨鈴は牀の上で身を起こし、しばらくぼんやりしていた。
隣は、空だった。掛布だけが、きちんと整えられている。
(……そういえば)
昨夜は、芝居のことなど、どちらも一言も口にしなかった。
柏峰も巌牙も宿にいるのに。二人とも、すっかり忘れていた。
それなのに、目が覚めた時、掛けられていた布は二枚だった。
朝餉の卓で、雨鈴は自分から切り出した。
「……昨日のこと、話してもいい?」
景辰は、匙を置いた。
「無理をするな。」
「無理じゃないの。……昨日、他の人の口から聞いたんでしょう。だったら、私の口からも、ちゃんと話したい。」
それから雨鈴は、ぽつぽつと話した。
物心ついた時には、あの家にいたこと。
よく当たる子と言われていた頃は、まだ良かったこと。
ある時から、村の目が変わったこと。
牛が病むと言えば、お前が言ったから病んだのだと言われ、子どもが池に落ちると言えば、お前が呼んだのだと言われたこと。
「……最初はね、褒められたのが嬉しくて、言ってたの。危ないよ、気をつけてって。……助けたかっただけなの。」
「分かっている。」
「でも、言えば言うほど、みんな離れていって。……家の中でも、だんだん」
そこで、言葉が途切れた。
景辰は、先を促さなかった。
「三年前に、飛び出したの。もう、いいやって思って。……都に着いて、占い屋の看板を出したのは、それしかできることがなかったからだけど。」
雨鈴は、少しだけ笑った。
「都の人は、当たると喜んでくれた。気味悪がる人もいたけど、それより、ありがとうって言ってくれる人の方が多かった。……あれが、嬉しかったな。」
景辰は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「――俺は、お前のその目が、気味が悪いと思ったことは、一度もない。」
「……うん。」
「一度もだ。」
「……うん。知ってる。」
湯気の向こうで、雨鈴は目を伏せた。
この人は、初めて会った時から、そうだった。気味が悪いとも、恐ろしいとも言わず、ただ「使え」と言った。
あの乱暴な言い方が、どれほど救いだったか、たぶんこの人は知らない。
出立の刻限。
宿の前に、人が集まっていた。村の者たちだ。
遠巻きに、けれど確実に、こちらを見ている。
噂は一晩で村中を回ったらしい。あの気味の悪い子が、都のお偉い方の側室になって帰ってきた、と。
馬車へ向かう短い距離。無数の視線が、雨鈴に刺さった。
(……大丈夫。)
顔を上げて、背筋を伸ばした。
翠華に習った通りの歩き方で、まっすぐに歩く。
三年前、この道を、俯いて走った。
石を投げられて、振り返らずに走った。
今は、違う。
視線の中を歩きながら、雨鈴は思った。
この人たちの誰の未来も、私はもう視ない。視えない。名前も、顔も、覚えていない。
――そう決めたから。
馬車に乗り込む直前、ふと、畑の向こうへ目をやった。
白い幹の並木が、朝の光に立っている。
子どもの頃、あの木の下だけが、静かだった。
誰も来ない場所で、膝を抱えて、日が暮れるまで座っていた。
「……ばいばい。」
小さく呟いて、雨鈴は馬車に乗った。
村を出て、しばらく。
馬車の脇を、蒼真の馬が並んでいた。
ずっと、いつもより近い位置についている。
「……蒼真。」
「はい。」
「昨日は、ありがとう。すぐ、間に入ってくれて。」
「仕事です。」
いつもの返事だった。けれど、そのあと、珍しく言葉が続いた。
「……あの村の連中の目つきは、気に入りません。」
「え?」
「石を投げる相手を選ぶ目です。ああいうのは、戦場にもいる。……俺は、そういう手合いが、いちばん嫌いです。」
雨鈴は、思わず窓から身を乗り出した。
「蒼真、あなた……」
「何も聞いていません。」
ぴしゃりと、遮られた。
「井戸端の噂話など、俺は聞いておりません。何も。……ただ、俺の仕事は、あなたを守ることです。それだけです。」
そう言って、蒼真は前を向いてしまった。
雨鈴は、しばらくその横顔を見ていた。
(……なんだ)
鼻の奥が、つんとした。
――この人、聞いたのに。聞いた上で、何も変わらないでいてくれるつもりなんだ。
窓の内に引っ込みかけて、雨鈴は、そこで動きを止めた。
向かいの景辰を見る。
景辰は書きつけから顔を上げ、こちらをしばらく見て――小さく、頷いた。
好きにしろ、という頷き方だった。
「……蒼真。」
「はい。」
「聞いてほしい話が、あるの。」
馬上の背中が、わずかに動いた。
「私ね、ずっと、あなたに黙ってたことがある。」
「……伺わない方がよろしいのでは?」
「ううん。聞いて。」
雨鈴は、窓枠を握った。
「言わなかったのは、あなたを信じてなかったからじゃないの。……その逆。言ったら、あなたが離れていくと思ったから。」
「離れる?」
「うん。」
喉が、少し渇いた。
この一月半、蒼真は毎日、護身の稽古をつけてくれた。
ぶっきらぼうで、態度は悪くて、それでも一度も手を抜かなかった。
翠華の分まで献立を増やして、文句を言いながら、二人分教えてくれた。
「それに、あなた……蒼楽から聞いたの。いずれは禁軍を率いる将になるって、それが口癖だって。」
「……兄が、余計なことを。」
「余計じゃないわ。似合うと思う。本気で。」
雨鈴は、窓枠を握る手に力を込めた。
「あなたは、女ひとりの護衛で終わる人じゃない。いつか、千の兵の先頭に立つ人でしょう。……だったら、遅かれ早かれ、私の傍からはいなくなる。」
そう。だから、いいと思っていた。
どうせいなくなる人に、わざわざ打ち明けて、気味悪がられて、その日を早める必要なんてない。
去っていく背中を見送るのなら、せめて笑ったまま見送りたい。
――そう、思っていたのだ。
(……でも、もう)
「私、視えるの。」
言った。
「人の顔を見て、その人のことを思い返すと――その人の、これからが視える。未来が。」
馬の蹄の音が、数拍、続いた。
「一日に、五分だけ。それ以上使うと、身体が冷えて、動けなくなる。」
言葉が、勝手に転がり出ていく。
「豊陽で人を助けたのも、毒の犯人を見つけたのも、全部それ。……私が『私の力』って言ってたの、市井の目のことじゃないの。ごめんなさい、ずっと、そう思わせておいて。」
馬上の男は、何も言わなかった。
風の音と、車輪の音だけがある。
雨鈴は、俯いた。
村の子どもらの顔が浮かぶ。
石。気味の悪い子。近寄るな。
三年経っても、平気になんてならなかった、あの目。
――それでも。
「あなたには、ちゃんと言いたかったの。あの村で、あなたが、何も聞いてないって言ってくれたから。」
沈黙が、長かった。
やがて、蒼真が口を開いた。
「……二つ、訂正させていただきます。」
「え?」
「一つ。俺は将になります。それは、変わりません。」
あまりにきっぱりと言うので、雨鈴は思わず笑いそうになった。
「二つ。……それと、今この任とは、何の関わりもありません。」
「え……」
「兄に言われたことがあります。人ひとりを守り抜く仕事は、千人で攻めるより難しい、と。……あの時は、体のいい言い訳だと思いました。」
蒼真は、前を向いたままだった。
「今は、そうでもないと思っています。……だから、これは腰掛けではありません。任を解かれるその日まで、俺の全力でやります。」
雨鈴は、何も言えなかった。
「それで」
男は、あっさりと話を進めた。
「一日に五分、と仰いましたか?」
「え?あ、うん。」
「回数は。一度に五分を使い切るのと、細かく分けるのとでは、どちらが身体に障りますか?」
「……え?」
雨鈴は、顔を上げた。
蒼真は、まっすぐ前を向いたままだった。
真面目な、いつもの仏頂面で。
「使い切った後、動けなくなるまでにどれくらい猶予がありますか?冷えは、どこから始まりますか?……前もって分かっていれば、その場から離脱させる算段が立てられます。」
「蒼真、あの」
「護衛の務めです。」
ぴしゃりと、いつもの調子で。
「あなたが倒れるのは、俺にとっては敵の刃と同じです。備えのしようがあるなら、備えます。……で、どちらですか?」
雨鈴は、しばらく口を開けたままだった。
気味が悪い、とも。恐ろしい、とも。信じられない、とも言わなかった。
この男は、ただ、守るための情報として受け取ったのだ。
――ああ。
喉の奥が、熱くなる。
「……細かく分けた方が、ましみたい。」
「では、そのように。……使う前には、必ず俺に一言ください。壁際か、座れる場所へお連れします。」
「うん。」
「返事ははい、と翠華さんに叱られますよ。」
「うるさい!」
笑ったら、涙がこぼれた。慌てて袖で拭った。
馬上の男は、それにも気づかないふりをして、前を向いていた。
その様子を、向かいの席から、景辰は黙って見ていた。
打ち明けるのは、恐ろしかったはずだ。
この娘にとって、あの力を明かすことは、いつも捨てられる覚悟と抱き合わせだった。
一人、増えたな。
あの秘密を知り、それでも変わらずに傍にいる者が。
その頃。
白楊村を離れた早馬が一騎、来た道を東へ駆けていた。
馬上の男の懐には、柏峰の手による短い書きつけが収められている。
――雨鈴様、当村にて三年前まで居住。育ての親と称する男女あり。村での評判、芳しからず。曰く、
「よく当たる」「不幸を呼ぶ子」。幼少より、先の出来事を言い当てること度々。
早馬は、都を目指して、砂埃を上げていく。
この報せが第二皇子の手に渡るまで、あと、わずか。




