第六十一話:親という名の
「――追い返せ。」
景辰の答えは、即座だった。
「あれには会わせん。名も告げるな。何も聞かせるな。」
「承知。」
蒼楽が階下へ降りていく。
景辰も、その後を追った。
あの娘の耳に届く前に、片をつける。
それだけを考えていた。
宿の土間に、二人は立っていた。
年の頃は五十がらみ。日に焼けた男と、痩せた女。
粗末だが、一張羅らしい衣を着ている。急いで着替えてきたのだろう。
景辰の姿を見るなり、二人は地面に額をこすりつけた。
「お、お目通りを賜り、恐悦にございます。わたくしども、雨鈴の父と母にございます。」
「用件を申せ。」
「は、はい。……娘が、都のお偉い方のお世話になっていると聞き及びまして。あの子は、その、身体が弱く、幼い頃から手のかかる子でございましたが、わたくしどもが手塩にかけて育てまして。」
女の方が、涙声で続けた。
「三年前、ふらりと家を出てしまいまして……。それはもう、心配で、心配で。毎日、村中を探し回りまして……」
嘘だ。
村の者は誰も探さなかった、と蒼楽は言った。
厄介払いができた、と。
「一目、会わせてはいただけませんでしょうか。親子にございます。三年ぶりに、ただ一目……」
男が、揉み手をしながら顔を上げた。その目が、景辰の衣の絹を、値踏みするように舐めた。
――ああ。
この目を、知っている。
市の外れで、拾った子を売りに来る手合いの目だ。
「断る。」
景辰は、短く言った。
「あれは私の宮の者だ。会わせる筋合いはない。」
「そ、そんな……! 親でございますよ!?」
「――親、ね。」
その時。
階段の上から、声が降ってきた。
景辰が振り向く。
翠華が、青い顔で階段の途中に立っている。
そして、その前に雨鈴が、いた。
「雨鈴、上へ戻れ。」
「いいの。」
雨鈴は、首を振った。
「もう、聞いちゃったから。」
一段ずつ、階段を降りてくる。
その足取りは、驚くほど落ち着いていた。
落ち着いているのが、かえって痛々しかった。
土間の二人が、雨鈴を見上げた。
その瞬間、二人の顔から、涙も、揉み手も、すっと消えた。
「……なんだ、本当に雨鈴じゃないか。」
男の声が、変わった。
「おい、お前。都で何をしてる。ずいぶんな身なりじゃないか。」
「あんた、黙って出ていって、三年も音沙汰なしでさ。」
女の声も、変わっていた。
媚びも、涙声も、そこにはなかった。
三年前まで、毎日この家で聞いていた声。
低くて、苛立っていて、こちらを人として見ていない声。
――ああ、そうだ。
雨鈴は、階段の下で足を止めた。
この声だ。この声が、怖かったんだ。
膝から力が抜けそうになる。
三年かけて剥がしたはずのものが、たった二言で、ぺたりと戻ってくる。
でも。
(……もう、いい。)
雨鈴は、顔を上げた。
「――お久しぶりです。」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「わざわざ、ありがとうございます。ご用件は?」
「用件も何も、親に向かって。」
「用件は?」
もう一度、同じ調子で繰り返す。
男が、ぐっと詰まった。
それから、急に猫撫で声になった。
「……いや、なあ、雨鈴。お前もお偉い方に拾われて、良かったじゃないか。なあ。育ててやった恩ってもんが、あるだろう。うちも苦しくてなあ。ちょっとばかり、都合してくれてもいいんじゃないか。」
「銭ですか。」
「お、おい、言い方ってもんが。」
「いくら要るんですか?」
雨鈴は、まっすぐに男を見ていた。
その目に、男が一瞬たじろいだ。
そして、たじろいだことに腹を立てたらしい。
「……ちっ。相変わらず、気味の悪い目をしやがって。」
空気が、凍った。
「その目で、うちがどれだけ迷惑したと思ってる。近所からは白い目で見られる、店じゃ物も売ってもらえん。お前が余計なことを言うたびにだ。……こっちだって、好きで育てたわけじゃないんだ。押し付けられて、仕方なく――」
「――口を慎め。」
景辰の声が、低く落ちた。
それだけで、土間の温度が変わった。
男の口が、途中で止まる。
「私の側室に向かって、二度とその口を利くな。」
「そ、側室……?」
男と女の顔が、みるみる青くなり、そして次の瞬間、白々しいほどの笑みに変わった。
「そ、それは……! まあ、雨鈴、お前、そんな立派に! いやあ、母さんは信じてたよ、この子はやると――」
「聞け。」
景辰は、一歩前へ出た。
「この村で、この娘が何と呼ばれていたかも、家の内でどう扱われていたかも、私はもう聞いている。……全部だ。」
二人の顔から、笑みが落ちた。
「訴え出れば、貴様らの首は飛ぶ。この村ごと、二度と立ち直れんようにすることもできる。……私にはそれができる。」
男が、へたり込んだ。
「だが、しない。」
「!」
「この娘が、望まんからだ。」
景辰は、そこで初めて、雨鈴を見た。
「――どうする?決めろ。」
雨鈴は、しばらく黙っていた。
それから、袖の中から、小さな包みを取り出した。
旅の路銀として持たされていた、自分の銭だ。
それを、土間へ、静かに置いた。
「これで、終わりにしましょう。」
「あ、雨鈴……」
「育ててくれて、ありがとうございました。」
言葉は、丁寧だった。丁寧すぎるほどに。
「でも、もう二度と、私を探さないでください。都へも来ないで。……私は、あなたたちの娘じゃなくなりました。沈家の養女で、殿下の側室です。」
自分の口から出た言葉が、他人のもののように聞こえた。
「顔も、忘れます。」
それだけ言って、雨鈴は背を向けた。
階段を上がる。振り返らなかった。
背後で銭を掴む音と、何かを言い募る声と、蒼真が二人を外へ追い出す音が聞こえたが、一度も、振り返らなかった。
部屋に入り、戸が閉まった、その瞬間。
雨鈴の膝が、抜けた。
「雨鈴!」
景辰が支える。
その腕の中で、雨鈴は震え出した。声もなく、ただ、がたがたと。
「……こわ、かった。」
「ああ。」
「ずっと、こわかったの。あの声が。……三年経っても、全然、平気じゃなかった。」
「よく、やった。」
景辰の手が、背中に回る。
宿の一日目の夜と同じ、けれど今度は芝居でも何でもない、ただ人を支えるための腕だった。
「よく、やった。……あれ以上のことは、誰にもできん。」
雨鈴は、その胸に額を押し当てて、泣いた。
声を殺して、長いこと泣いた。
三年分と、それよりずっと前からの分を、全部。
戸口の外。
蒼真が、壁に背を預けて立っていた。
井戸端で村の女たちから聞いた話が、頭の中でぐるぐる回っている。
よく当たる子。不幸を呼ぶ子。あの子が言った通りになる。
――当たる、とは。
あの方が「私の力」と言った時、市井の目のことだと思っていた。
民の暮らしを知る目のことだと。
(……違う、のか?)
戸の向こうから、押し殺した泣き声が漏れてくる。
蒼真は、剣の柄を握りしめたまま、その場を動かなかった。




