第五十九話:見られている
その日の馬車の中は、異様に静かだった。
雨鈴は窓の外を見ている。
景辰は書きつけを見ている。
二人とも、驚くほど熱心に、それぞれ別の方向を見ていた。
(……気まずい。)
朝のあれは芝居だ。
作戦だ。
そう自分に言い聞かせても、腕を回した時の背中の感触と、あの人の身体が硬直した瞬間の手応えが、消えてくれない。
(――でも、あの時の顔は見たかったな。)
思い出して、つい口の端が緩んだ。
「……何を笑っている?」
「!笑ってない。」
「笑っていた。」
「気のせいよ。」
会話はそこで途切れた。景辰がまた書きつけに目を落とす。
その耳が、朝からずっと、ほんのり赤いままであることに、雨鈴は気づかないふりをしていた。
異変に気づいたのは、二日目の夜だった。
その日の宿も、部屋の割りは同じだった。
牀が一つ。蒼真が戸口の隅。灯りが消えて、二人が端と端に横になって――そこで、雨鈴は、はたと気づいた。
(……待って。)
明日の朝も、翠華が起こしに来る。
蒼楽が顔を出す。
柏峰と巌牙が、宿の下で待っている。
つまり。
(明日の朝も、あれを、やるの……!?)
闇の中で、雨鈴は目を見開いた。
昨日のあれは、その場しのぎの芝居だったはずだ。
一度きりの、たまたまの。
けれど昨日「共に寝ている夫婦」を見せてしまった以上、今日それをやめれば、かえって不自然になる。
昨日は仲睦まじく、今日は端と端。
そんな話が兄の耳に入れば、どうなるか。
――やめられない。
この旅が続く限り、毎朝、あれを続けなければならない。
「……おい。」
背中側から、低い声がした。景辰も起きていたらしい。
「今、同じことを考えているだろう。」
「……たぶん、同じことだと思う。」
「朝までに、どちらかが寄ればいい話だ。」
「言い方!」
「では何と言えばいい?」
答えられなかった。
沈黙が落ちる。
妙に長い沈黙だった。
「……先に寝る。」
「私も寝る。」
結局その夜も、二人は端と端で目を閉じた。
そして翌朝、翠華が戸を叩く頃には、なぜか二人はきちんと真ん中にいた。
どちらがいつ寄ったのかは、二人とも決して口にしなかった。
二日目、三日目と、街道は西へ延びていった。
景色が、少しずつ変わっていく。
都の周りの整った田畑が、痩せた土と低い山に変わる。
行き交う人の身なりも、話す言葉の訛りも、一日ごとに違っていった。
そして雨鈴は、道中ずっと、視線を感じていた。
「……ねえ、翠華。」
休憩で馬車を降りた時、雨鈴は小声で囁いた。
「見られてる、よね?」
「ええ。」
翠華は、水筒を差し出しながら、表情ひとつ変えずに答えた。
「柏峰様は、常に一行の後ろにおられます。私どもの荷の数、食事の量、殿下と雨鈴様がどれだけ言葉を交わされたか。……おそらく、全部数えておられます。」
「うわ。」
「巌牙様の方は、単純です。あの方は殿下と雨鈴様の間合いを見ている。……蒼真様が、ずっと張り合っておいでですよ。」
言われて見れば、確かに。馬車の脇に付く位置を、蒼真がさりげなく譲らずにいる。
護衛の位置取りという名の、無言の押し合いだった。
「……男の人って、めんどくさいのね。」
「私もそう思います。」
その柏峰が声をかけてきたのは、三日目の昼下がりだった。
「雨鈴様。少し、よろしゅうございますか?」
馬車の脇で足を止めた男は、相変わらず物静かで、相変わらず何を考えているか分からなかった。
「は、はい。何でしょう?」
「差し出がましいことですが、道中の献立を組んでおります。……お口に合わぬものがあれば、先に伺っておきたく」
「え、そんな、私は何でも。」
「では、幼い頃に召し上がっていたものなど、いかがでしょう。旅先では、慣れた味が何よりの薬になりますゆえ。」
――ぴくり、と。
雨鈴の指先が、動いた。
「幼い頃……ですか?」
「はい。ご出身は、都と伺っておりますが。東の裏通りでお育ちに?」
「……ええ、まあ。」
「生まれも、都で?」
柏峰の声は、あくまで穏やかだった。
献立の話をしているだけの顔で、道の砂利でも見るような目で、こちらの顔を見ている。
雨鈴は、笑った。市で客をあしらっていた頃の、いちばん上手い笑い方で。
「さあ、どうでしょう。物心ついた時には、もう裏通りにいましたので。」
「左様でございますか。……不躾を、お許しください。」
柏峰は深く礼をして、下がっていった。
その背中が離れてから、雨鈴はようやく息を吐いた。
手のひらが、汗ばんでいた。
(……献立の話じゃ、ないわよね。)
あの人は、私の生まれを知りたがった。何のために。誰のために。
――決まっている。
「……雨鈴。」
いつの間にか、景辰が横に立っていた。
「今の、聞いていたの?」
「途中からな。……何を訊かれた?」
「生まれ。都かどうか。」
景辰の眉が、深く寄った。
「兄上は、お前の何を知りたがっている……」
答えられる者は、この場に一人もいなかった。
四日目の夕刻。
街道の先に、灯りが見えてきた。
最初は、ぽつぽつと。
やがて、連なって、日が沈みきる頃には、通りの両側にずらりと提灯が並び、町ひとつが、まるごと橙色に光っていた。
――桃里。
馬車の窓に、雨鈴は張り付いた。
油の匂い。焼ける肉の匂い。
甘い匂い。呼び込みの声。
子どもの笑い声。串を持って走る影。
全部、知っている音と匂いだった。
「……わあ!」
声が、勝手に漏れた。
都の東の裏通り。
あの、狭くて、雑多で、うるさくて、それでも確かに人が生きていた市と――同じ匂いがする。
町が違っても、国の端でも、市の匂いというのは同じものらしい。
絹と香と作法の一月で、すっかり遠くなっていたその匂いが、鼻の奥をつんとさせた。
「宿は、この先だ」
景辰が、書きつけから顔を上げた。
「荷を入れて、警護の割りを決めたら――少し、出るか。」
「!」
振り向くと、景辰はもう窓の外を見ていた。こちらを見ずに、付け足す。
「一刻だけだ。蒼真と翠華も連れて行く。……その顔をされて、宿に閉じ込めておけないからな。」
雨鈴は、思わず笑った。
「ありがとう。」
「……礼を言われることではない。」
馬車が、灯りの中へ入っていく。
この夜のことを、雨鈴は後々まで、繰り返し思い出すことになる。
旅が始まって、いちばん楽しかった夜として。
そして――何も知らずにいられた、最後の夜として。




