第五十八話:一日目の夜
「では、夜の警護ですが」
夕餉のあと、蒼楽が実に爽やかな笑顔で手を挙げた。
「お部屋の中にも一人、詰めておきます。何かあれば即座に動けるように。……というわけで、俺が.
」
「却下。」
雨鈴の返事は、瞬きより早かった。
「えっ、なんで!?俺、腕は確かですよ?」
「腕の問題じゃないの!」
この男が部屋にいたら、明日の朝までにどれだけ茶化されるか分かったものではない。
しかも、都に戻ってから宮中に何を触れ回るかも。
「蒼真がいい。」
「……は?」
柱に寄りかかっていた蒼真が、露骨に嫌そうな顔をした。
「……俺は、どちらでも。」
「決まりね。」
「ええ~。蒼真、代われよ。兄ちゃんに譲れって。」
「蒼楽。」
景辰の低い声が飛んで、それきり話は終わった。
部屋は、思っていたより狭かった。
牀が一つ。卓が一つ。
窓は小さく、灯りは一つきり。宮の部屋なら控えの間程度の広さに、大の大人が三人。
蒼真は言われるまでもなく、部屋のいちばん隅に胡座をかいた。
壁に背を預け、剣を抱え、目を閉じる。それきり、置物のように動かない。
「……あの、蒼真。寝ないの?」
「これが仕事です。」
「そう……」
会話が、続かない。
雨鈴は牀の端に腰を下ろした。
反対の端に、景辰が座る。
二人の間には、掛布が一枚ぶん、しっかりと余白が空いていた。
灯りが消される。
闇の中、雨鈴は牀のいちばん端で、身体を強張らせて横になった。
落ちる寸前まで端に寄っている。
背中側からも、まったく同じ気配がした。
景辰も、反対側の端にいるのだ。
(……何、この距離。)
毎晩同じ部屋で話しているくせに、横になった途端、この始末である。
目を閉じても、なかなか眠れなかった。
旅の疲れはあるのに、頭の芯だけが冴えている。慣れない天井。慣れない匂い。
そして、明日も明後日も、この道が向かう先。
――白楊村。
その名前が浮かんだ途端、指先が、すっと冷えた。
どれくらい経っただろうか。
景辰も、眠れずにいた。
旅の初日というのは、いつもこうだ。身体は疲れているのに、頭が休まらない。
護衛の配置。明日の行程。兄の目。数えるほどに、目が冴えていく。
寝返りを打ちかけて、ふと、隣の気配に気づいた。
――震えている。
小さく、細かく。掛布の下で、雨鈴の肩が震えていた。
「……雨鈴?」
返事はない。眠っている。眠ったまま、震えている。
寒いのか。夜半の冷え込みは、確かに都より強い。
景辰は身を起こし、そっと、その手に触れた。
――冷たい。
驚くほど冷たかった。
氷のような、あの日の指先と、同じ温度だった。
五分を使い切って倒れた、あの夜と。
まさか、と一瞬思った。旅先で、こんな夜中に、視るはずがない。
……だが、この冷たさを、知っている。
景辰は、しばらくその手を握っていた。
それでも、震えは止まらなかった。
迷ったのは、ほんの数拍だった。
掛布ごと、そっと引き寄せる。
腕の中に収めて、背に手を回す。
抱きしめる、という形になるまでに、ずいぶん時間がかかった。
――止まった。
腕の中で、震えが、ゆっくりと収まっていく。
強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。
やがて雨鈴は、こちらの胸元に額を寄せて、深く息を吐いた。
景辰は、動けなくなった。
柔らかい。髪から、いつもの香の匂いがする。
心の臓が、うるさいほど鳴っている。
(……これは、看病だ。)
誰にともなく、言い訳をした。
(冷えているから、温めているだけだ。それだけのことだ。)
部屋の隅で、置物のように動かない男が、本当に眠っているのかどうか。
それだけは、確かめる勇気がなかった。
その頃、雨鈴は夢を見ていた。
寒い夢だった。
どこか、暗くて、狭くて、風の吹き込む場所。
誰かの声が遠くで聞こえる。気味が悪い、と誰かが言う。
あの子は違う、と誰かが言う。
寒い。寒くて、指の先の感覚がない。
膝を抱えて、じっとしている。誰も来ない。誰も――。
と。
ふわり、と。
どこからか、温かいものが降りてきた。
風が止む。背中が温かい。
指先に、ゆっくりと血が通っていく。
誰かが、傍にいる。誰かが、ここにいてくれる。
――ああ。
夢の中で、雨鈴は思った。
ひとりじゃ、ないんだ。
その温かさに、頬を寄せる。
もう少しだけ、あと少しだけ、こうしていたい。ずっと、こうしていたい。
幸せだ、と思いながら、雨鈴は夢の底へ沈んでいった。
朝。
窓の隙間から差し込む光で、雨鈴は目を覚ました。
温かい。妙に、温かい。それに、目の前が、暗い。
何かの布地が、視界いっぱいに広がっている。
(……布?)
寝ぼけた頭で、数拍。
――衣だ。誰かの、衣の胸元だ。
(――!?)
一気に目が覚めた。
抱きしめられている。景辰に。がっちりと。
頭の後ろに手を回されて、完全に、収まっている。
「ちょ、ちょっと……!」
両手で胸を押した。びくともしなかった。
何なのこの人、寝てるのに力が強すぎる。
「離して……」
「――もう少し、そのままでいろ。」
耳の上から、囁き声が降ってきた。
起きている。この人、起きている。
「な……」
「静かにしろ。」
声は、ぞっとするほど落ち着いていた。
「よく考えろ。この部屋には蒼真がいる。じきに翠華も来る。柏峰と巌牙も、この宿にいる。……その全員に、俺たちが牀の端と端で寝ていたと知られて、どうする。」
――あ。
そういう、ことか。
「兄上の耳には、道中の何もかもが入る。普段から共に寝ていると思わせておかねば、あの人はすぐに突いてくる。……だから、そのままでいろ。」
理屈は、通っている。
悔しいほど、通っている。
「…………分かったわよ。」
雨鈴は、渋々、力を抜いた。
けれど。
(……なんか、腹立つ。)
なぜこの人は、こんな時まで平然としているのか。
こちらは心の臓が壊れそうなのに、頭の上の声は、まるで作戦の説明をしているみたいだった。
その時、蒼真が立ち上がる気配がした。
戸口へ向かう前に、牀の様子を確認するその一瞬。
――視線を、感じた。
確実に、見られた。
(………………よし)。
何かが、ぷつりと切れた。
どうせ見せつけるのが目的なら。
どうせ、そういう芝居をするのなら。
中途半端にやって、何になる。
「――失礼いたします。雨鈴様、お目覚めで――」
翠華の声とともに、戸が開いた。
その瞬間、雨鈴は両腕を、景辰の背に回した。
ぎゅう、と。しっかりと、力を込めて。
「!」
腕の中で、景辰の身体が、はっきりと硬直した。
「あらあら。」
翠華の声が、これ以上ないほど嬉しそうに弾んだ。
「……まあ、まあ。これは、失礼をいたしました。」
「おやおや?」
続いて入ってきた蒼楽が、にやりと笑う気配がした。
「これはこれは。お邪魔でしたかねえ。」
そして、その後ろに控えていた男が――柏峰が、ごく静かに、咳払いを一つした。
「……我らは、外にて控えております。」
衣擦れの音とともに、人の気配が退いていく。戸が、静かに閉まった。
(……やってやった!)
雨鈴は、腕の中で、こっそりと口の端を上げた。
見たか。これが芝居というものよ。
あの三人の顔、見られなかったのが惜しいくらい。
一方。
景辰は、動けずにいた。
(……なぜ、抱き返してきた。)
命じたのは「そのままでいろ」だ。
押し返すな、という意味だ。
抱きしめ返せとは、一言も言っていない。
背に回された腕の力。
胸元に押し付けられた額。
理屈も、作戦も、兄の目も、何もかもがどこかへ吹き飛んで、頭の中が真っ白になっていた。
平然としていなければならない。この娘の前では、常に。
(……無理だ。)
その朝、第三皇子・景辰は、生まれて初めて、朝の身支度が遅れた。




